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連載・特集

被爆70年 悲しみがここに <1> 酒田朝香さん=広島市西区

母のための見合い写真 逃げたい気持ち抑え

 当時13歳、広島女子商業学校(現広島翔洋高)2年生。爆心地から約2キロの広島駅前で被爆し、顔や首、両腕に大やけどを負った。ケロイドの痕に引け目を感じながら、娘時代を生きた。これは23歳ごろ、母に促されて用意した。写真に撮られるのは極力避けてきたが、娘の将来を案じる母を安心させたくて、レンズの前に立った。

 澄まし顔で映っているが、本当は逃げ出したかった。首元が詰まった服を着て、手の向きを工夫してケロイドが見えないようにした。でも顔は―。後ろを向くわけにもいかない。カメラの前に立つと、左側の顔面がこわばった。「心で叫んどりました。もらってくれる人なんか、おらんのにって」

 苦痛な撮影に臨んだのは、母シナヨさんがこう言ったから。「年頃なんじゃけえ。見合い写真くらい撮っといたら」。努めてさりげなく、さらりと言葉にした。娘は幸せになれるのだろうかと心配し、胸を痛めていたに違いない。「そういえば親孝行らしいこと、何もできてないなって思ってね」

膨れ上がった顔

 この母に、ずっと守られてきたと酒田さんは言う。父は自分が生まれてすぐに他界。母はたばこ店や染め物工場で働き、3人の子どもを育てた。原爆投下時、姉2人は既に嫁ぎ、2人で暮らしていた。

 あの日の夕暮れ、自力で広島市三篠町(現西区)の自宅にたどり着いた。顔は膨れ上がり、左目はふさがった状態で。「朝香か」。いつもは物静かで動じない母の声が、上ずっていたのを覚えている。

 医者に見せても薬はもらえず、母はやけどに効くと聞いた薬草を野山で探し回った。搾り汁で浸した脱脂綿を傷口に当ててくれた。見舞いに来た人を、母は玄関先で帰らせた。「相手が驚けば、私が傷つくから。もうこれ以上、娘に痛い思いをさせたくなかったんでしょう」

 そんな母を安心させるためとはいえ、写真館へ向かう足取りは重かった。「見合い」という言葉が恐ろしかった。20歳すぎに1度、縁談が持ち上がったことがあった。上司からの勧めで、相手は東京の人だった。だが、酒田さんが被爆者であることが伝わると話は途切れた。「だめなんだよ。済まなかったね」。上司に謝られ笑ってみせた。心の中では泣いていたけれど。

箱にしまい込む

 結局、見合い写真を使うことなく、近所の人の紹介で結婚。1男1女をもうけた。娘が13歳になった時、傷もなく元気に育ってくれたことがうれしかった。母の気持ちに、少し近づけた気がした。

 箱に入れ、しまい込んでいたお見合い写真を取り出してみる。心配そうな母のまなざしを思い返す。安心してね、と伝えたい。ここまで生きてこられたよ。あなたのおかげで。(鈴木大介)

    ◇

 生き延びてからも試練だったと、被爆者は言う。付きまとう偏見や差別を恐れ、引け目を感じながら生きてきた、と。原爆がもたらした心の傷は、70年たった今も癒えることはない。その「痛み」をつづっていく。悲しみが詰まった、写真や思い出の品を頼りに。

(2015年7月31日朝刊掲載)

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