×

連載・特集

『生きて』 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <11> ヒロシマを書く

先輩作家の勧めで決意

  1978年、父が他界し書道塾を辞め、妻の実家がある防府市に転居
 物心ついたころからピカの話を聞かされてきて、広島におった時は文学の対象にする気もなかった。それが、防府に引っ越すと広島のことが気になりだした。それと、結婚して5年目の81年に長男が生まれて。不思議と、この子のために原爆について書いておきたいと思ったね。

  82年春、児童文学作家いぬいとみこさんと柳井市で会食。それがヒロシマを執筆する呼び水となる
 いぬいさんは、同人誌「子どもの家」の合評会にもよう来よっちゃって、山口に行くから食事でもと誘われた。その時に「ズッコケもいいけど、被爆してるんだから、原爆のこと書いたら」と。それもそうじゃなと。帰りの電車で、原爆いうても何を書いたらええんかと思うた時、佐々木禎子さんを思い出した。

 というのも、僕は基町高で、禎子さんの同級生と一緒になった。ところが、当時、そういう話を一度も聞いたことがないんよ。それがちょっと不思議で。同級生に取材してみると、彼らは「大人にだまされた」とか「わしらは、あがーな像を建てたいとは思うとらんかった」とか好きなことを言う。新聞や本で読んだ美談とはまったく違うわけよ。

 僕は同世代だから、彼らの目線で原爆の子の像建立運動を書いてやろうと。それで84年に出したノンフィクションが「折り鶴の子どもたち」。刊行後、クラス会に呼ばれて、同級生から「よう書いてくれた」と言われた時はジーンときたね。

  修学旅行の事前学習に使えるような子ども向けの本を、と頼まれる
 それで、絵本「絵で読む 広島の原爆」(95年刊行)を作った。自分史もと思い、お好み焼き店の女主人の3代記に重ねて戦後の歩みを小説にしたのが「ヒロシマ3部作」(2011年刊行)。まあ、ヒロシマのことは大体書き尽くしたなあ。ただ、原爆を書くと体調を崩す。「折り鶴―」の時は執筆中に不整脈が出て救急車で運ばれたし、「絵で読む―」では高血圧が悪化した。「ヒロシマ3部作」では糖尿病。意識してないけど、何かあるんじゃろうね。じゃけえ書くまあとは思わんかったけどね。

(2015年7月31日朝刊掲載)

年別アーカイブ