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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 番外編 被爆画家 記憶を描く <上> 洋画家・大前博士さん=広島市西区

 被爆から70年の今夏、広島で原爆を体験した2人の画家が、それぞれ「あの日」を伝える個展を開く。「あのむごたらしさは描ききれない」と、長い間、表現することを避けてきたテーマ。突き動かしたのは、流れゆく歳月と、消えない記憶だ。(森田裕美)

若き日の「封印」解く

 暗闇や劫火(ごうか)の中に、にらみつけるような人間の眼光が浮かぶ―。

 洋画家大前博士さんがことし、「あの日」を油彩で画布によみがえらせた新作の数々。力強い筆触は、被爆の惨状と、それに負けない人間の生命の重さを叫んでいるようだ。抽象表現だが、大前さんにとってはどの作品も、70年前の具体的な場面として語ることができる「具象画」である。

「黒焦げの世界」

 いずれも100~120号の大作。被爆体験をテーマに据え、8月1日から広島市で開く個展で披露する。

 「全て黒焦げになった世界。人間の目玉の白さだけが異常に光を放っていたのが、子ども心に衝撃で」

 当時、国民学校2年生。爆心地から約2・5キロの自宅で被爆した。気付いた時には自宅の屋根と壁はなく、やがて真っ黒な雨に打たれた。逃れた近くの防空壕(ごう)には、大やけどを負って、助けを求める人が次々やって来た。木が刺さったままの人、髪の毛がなくなっている人、内臓が飛び出ている人、倒れる寸前に仁王立ちして水を求める人、やけどが痛いのか、なぜか傷に泥を塗り続ける人…。「母親は死んでいるのに背負われた子どもだけが生きているという親子を、なぜか何組も見た」と幼い日の記憶をたどる。

 翌日、親を捜す友人と爆心地近くへ。「市街地は見る影もなかった」。被爆後はしばらく倦怠(けんたい)感が続き、後障害の話を聞くたびに怖かった。

 実は、原爆をテーマにした個展を、たった一度だけ開いたことがある。被爆から20年の1965年のこと。同年8月5日付の中国新聞広島版にこんな見出しで紹介されている。

 「油絵でヒロシマ・アピール 被爆体験訴え 大前さん平和記念公園で野外展」  多くの人でにぎわう様子は、大前さんが大切に保管していた複数の写真からも見て取れる。巡回展や第2弾を期待する声もあった。広島平和美術展を創設した画家柿手春三や四国五郎に促され、同展へ出品したこともあるという。

未熟さ感じ苦悩

 だが、そうした周囲の反応と裏腹に、「どんなにリアルさを追求しても、あの悲惨な風景は自分の力では表現しきれない」との思いが強くなった。

 「未熟なまま描き続けることはできない」。原爆を「封印」し、32歳で渡仏。西洋美術をあらためて学び、現地にアトリエを構えた。ひたすら「癒やし」を求めた。パステル調の色彩でパリや南フランスの心和む風景や花を描き、欧米での評価も得た。個展も重ね、広島とフランスを行き来する生活を続けてきた。

 野外展から半世紀。「この年齢になってふと、このままでいいのか、若き日の決着をつけねばと思うようになって」と大前さんは、「封印」を解いた理由を明かす。世の中から核の脅威はなくなるどころか増え続け、さらにグローバルな問題に。被爆体験を語れる人も老い、少なくなる一方だ。大前さん自身、4月に体調を崩して入院。幻覚の影に追われ、生死をさまよった。

 「若い世代が記憶の継承に知恵を絞っているときに、当事者である自分が描かなくてどうするんだと」

 個展は新作を中心に20点余り。あの日の少年が見た光景を、時をなぞるように並べる予定だ。

    ◇

 個展「ヒロシマ黙示録 黒い世界と白き眼光」は8月1~7日、広島市中区の広島県民文化センターで。入場無料。

(2015年7月31日朝刊掲載)

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