「かもめ食堂」記憶今も 南区の太田さん 姉妹が営み繁盛
11年8月8日
現在の平和記念公園(広島市中区)の平和の池がある場所にかつて3姉妹が営む「かもめ食堂」はあった。被爆死した三女の遺志を継ぎ昨年市内に料理店を開いた長女の孫、神岡学さん(34)=中区=は6日、店を手伝っていた四女の太田末子さん(89)=南区=と初めて一緒に平和の池を訪れ、原爆で消えた食堂や街に思いをはせた。
「姉ちゃんたちは美人姉妹と言われてね、兵隊さんがよく通って繁盛したんよ」。脳裏に刻まれた在りし日のにぎわいを、太田さんは声を弾ませて語った。南側の原爆慰霊碑を指し「あの辺に映画館、カフェ、写真館。にぎやかな街じゃったけど…」。
かもめ食堂があった旧中島本町は市内有数の繁華街だった。戦時の配給統制で食堂は1944年ごろ閉店したが、地区の同業者十数人と切符制の配給食堂を続けた。次女は八重町(現北広島町)に嫁ぎ、あの日、長女の豊子さんはたまたま広島県向原町(現安芸高田市)の実家に戻っていた。三女の美代子さん=当時(27)=だけが店に残っていた。
原爆で壊滅した食堂跡で豊子さんは見覚えのあるブラウスの切れ端と遺骨を持ち帰った。「もし祖母が店に残っていたら、僕は生まれていなかった」。神岡さんは、92年に80歳で亡くなった豊子さんから被爆体験を直接聞く機会はなかった。しかし、姉妹の運命を分けた原爆をそう受け止めてきた。
幼いころから料理をつくるのが好きだった。その原点は「かもめ食堂」にある気がしていた。高校卒業後、料理人の道へ。イタリア、スイスで修業し昨年5月、中区に念願の欧州料理店を開いた。
店内に飾る絵画やショップカードにカモメの意匠を用いた。祖母と美代子さんの2人がほほ笑む写真は店の奥にしまう。「家族の歴史を大切にしたいと思ったから。誰にも見せませんけど」という。
神岡さんは「原爆でここにあった街の営みは断たれたが、自分の気持ちの中で引き継ぎたい」。来訪者が絶えない公園内を見つめた。(藤村潤平)
(2011年8月7日朝刊掲載)
「姉ちゃんたちは美人姉妹と言われてね、兵隊さんがよく通って繁盛したんよ」。脳裏に刻まれた在りし日のにぎわいを、太田さんは声を弾ませて語った。南側の原爆慰霊碑を指し「あの辺に映画館、カフェ、写真館。にぎやかな街じゃったけど…」。
かもめ食堂があった旧中島本町は市内有数の繁華街だった。戦時の配給統制で食堂は1944年ごろ閉店したが、地区の同業者十数人と切符制の配給食堂を続けた。次女は八重町(現北広島町)に嫁ぎ、あの日、長女の豊子さんはたまたま広島県向原町(現安芸高田市)の実家に戻っていた。三女の美代子さん=当時(27)=だけが店に残っていた。
原爆で壊滅した食堂跡で豊子さんは見覚えのあるブラウスの切れ端と遺骨を持ち帰った。「もし祖母が店に残っていたら、僕は生まれていなかった」。神岡さんは、92年に80歳で亡くなった豊子さんから被爆体験を直接聞く機会はなかった。しかし、姉妹の運命を分けた原爆をそう受け止めてきた。
幼いころから料理をつくるのが好きだった。その原点は「かもめ食堂」にある気がしていた。高校卒業後、料理人の道へ。イタリア、スイスで修業し昨年5月、中区に念願の欧州料理店を開いた。
店内に飾る絵画やショップカードにカモメの意匠を用いた。祖母と美代子さんの2人がほほ笑む写真は店の奥にしまう。「家族の歴史を大切にしたいと思ったから。誰にも見せませんけど」という。
神岡さんは「原爆でここにあった街の営みは断たれたが、自分の気持ちの中で引き継ぎたい」。来訪者が絶えない公園内を見つめた。(藤村潤平)
(2011年8月7日朝刊掲載)