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社説・コラム

『潮流』 老哲学者の身ぶり

■論説委員・石丸賢

 いまわの際も、やはりこの人らしかった。

 先月、93歳で亡くなった哲学者の鶴見俊輔さんは、葬儀無用の遺言を残していた。親しかった一人が、その胸中を推し量る。

 「宗教者が(戦前や戦時中に)何を言っていたか、忘れないぞ」と身をもって示したのではないか、と。先の戦争でお先棒を担ぎ、今もさして代わり映えがしない者たちの世話にはならぬとの気骨だろうか。

 態度を重く見る人だった。ここぞという時代の節目での身の処し方に限ることなく、日々の暮らしでも徹底していた。

 逸話が幾つも残っている。知人たちと談笑のさなか、「帰ります。家事がありますから」と言い、すっと席を立つ。息子にも幼い頃から「さん」付けで呼び、対等に向き合う。

 思想を測るものさしとして、言葉よりも身ぶり手ぶりを重んじていたからだろう。そんなふるまいを垣間見た覚えがある。

 20年ほど前、子どもの本屋さんが鶴見さんを広島に招いた。聞きに行った講演会でまず印象的だったのは笑い声。上を向いて大口を開け、「アッハッハ」とそれは愉快そうだった。

 かと思えば、ここ一番の自説を開陳する時は一転。あごを引いて口を結び、十二分に間を取る。にらみつけるように正面を見据え、ひと息に語った。

 異彩を放つ所作の根っこには独自の考え方があった。物とは違い、思想や主張は手渡せない。だから誤解は承知で、思うところを身ぶりでも表せばいい。「誤解」や「偏見」を起点にした対話や議論からこそ、互いの間違いをなくしていく知恵も生まれてくる―。

 戦後日本がたどってきた不戦の道が、岐路に差し掛かっている。どんな難局にも笑みを絶やさずにいた鶴見さんの懐深さに学べないか。本棚の著書を引っ張り出している。

(2015年8月1日朝刊掲載)

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