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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 番外編 被爆画家 記憶を描く <下> 日本画家・宮川啓五さん=広島市西区

友の勧め 惨状を絵に

 「これだけは描けない、描きたくないという思いと、今描いておかなくてはという気持ちでずいぶん苦しみました。私の最後のあがきのようなものです」

 川岸や防火用水に、折り重なる焼けただれた肉体、息絶え絶えに水たまりの泥水をすする少女…。

 日本画家宮川啓五さんが、被爆から70年のことし、「あの日」の惨状を描いた墨絵。はつかいち美術ギャラリー(廿日市市)で7月31日に始まった個展「宮川啓五展 ヒロシマの記憶」に並ぶ。

 画業は65年を超える。長年、院展などを舞台に活躍してきたが、「ヒロシマ」を前面にうたった大規模な個展は初めてという。「あの体験を絵にするのは本当につらい。記憶は生々しいが、年齢とともにかすんで見えなくなる気もして。今描いたのが早かったのか遅かったのか。勇気を出して筆を握った」と話す。

体験 胸にしまう

 現在の広島市安佐南区西原に生まれた。広島工業専門学校(現広島大工学部)2年生だったあの日、市中心部での勤労奉仕に向かう途中、爆心地から約3キロの大芝町(現西区)で被爆。乗っていた自転車のチェーンが外れ、修理していて命拾いした。親戚や知人を捜すため、2日後に川舟で市中心部へ。遺体だらけで艪(ろ)に当たり、川岸からはなかなか上陸できなかった。

 そんな体験は戦後、胸にしまい込んだ。被爆者は5年も生きられないとうわさされ、周りでも被爆した人が次々と亡くなった。宮川さんにも吐血や鼻血といった被爆の影響と思われる症状が出た。差別を恐れ、両親は息子の被爆をひた隠しに。宮川さん自身も語らぬまま、子どもの頃から好きだった絵の道へ進んだ。

 1950年作「立葵」は広島県美展入選作。深い赤が立ち上る命の輝きを伝える傑作は、制作中にこぼれた鼻血が紙を染めたことで誕生した。

 51年、日本画部のあった新制作展に初入選、その後は小学校教諭や中学の美術教諭をしながら創画展や院展でも活躍。文化勲章を受けた故岩橋英遠に師事し、82年には特待に推された。

 被爆体験は隠していたため、惨状をありのまま描くことはなかった。が、「実は間接的には原爆を表現してきた」という。幻想的な画面が院展でも高く評価された「孤影」シリーズは、「よくも原爆を落としたな」とにらみつける宮川さん自身を投影したミミズクが潜んでいる。癒やしの精神世界を伝える「仏像」シリーズには、原爆への怒りや失われた命への供養、平和への祈りがこもる。

 直接的に惨状を描くようになったのは被爆50年を前にしたころから。「直接原爆を体験し、しかも君は絵で表現できるんだから、その目で見た惨状を描き残しておくべきだ」。友人たちに言われ、生き残った者の責任として、ここらできちんと体験に向き合おうと決心した。

「人物」を主題に

 最初に描いた「ひろしま惨禍」(94年)は被爆2日後に爆心地付近で見て、脳裏に焼き付いた光景をコラージュのように再現。県立美術館所蔵の「太田川 冬・春・夏・秋」(99~2000年)は、太田川の上流から下流へのパノラマ。戦前の冬、戦中の春、被爆し燃え盛る夏、戦後復興へ向かう秋と四つの時代の四季を表現した大作だ。

 それらに加え、今回出品する新作の墨絵は縦92・5センチ、横183センチの3点。むごすぎると、これまで避けてきた「人物」を主題に据えた。生きたまま焼かれた体には色を付けられず、墨の濃淡で仕上げた。

 描けなかった人間の惨状を絵にしたのもやはり、友人たちの勧めと励ましがあったから。だが、そのほとんどがここ1年で鬼籍に入った。「見てもらえないのは寂しいが、描いて良かった。何のためにこの世に生まれ、死んでいくのか。平和も知らずに惨めな死に方をした子どもがたくさんいた。70年前の事実を知ってほしい」(森田裕美)

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 約40点が並ぶ個展は、30日まで。入場無料。

(2015年8月1日朝刊掲載)

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