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連載・特集

被爆70年 悲しみがここに <2> 藤尾千種さん=防府市

10センチ高いカウンター 客の目遮る心のとりで

 当時13歳、進徳高等女学校(現進徳女子高)2年生。爆心地から約1・4キロの広島市南竹屋町(現中区)で被爆し、全身にやけどを負った。母の実家がある防府市に移住してからは、右手のケロイドが冷笑の的になった。結婚後に夫と開いたすし店でも、右手をさらすことはなかった。客の視線を遮ってくれたのが、特注のカウンターだった。

 写真の中の藤尾さんは、顔しか見えない。夫の弁次さん(2007年に80歳で死去)の背後に立ち、さらに胸の高さまであるカウンターに守られている。60年前、防府市に夫婦で店を構えて間もない頃の一枚だ。カウンターは弁次さんの特注品。標準より10センチ高くこしらえてあった。

 「生ものを扱う商売。お客さんが右手のケロイドを見て『うっ』となっちゃいけんから、視線を遮ってもらっていたの」。藤尾さんはアルバムを広げ、振り返る。店でのぴりぴりした緊張感がよみがえってくる。

「左利きじゃね」

 かっぽう着の袖を右手の甲まで引っ張り、茶やしょうゆは左手で差し出した。「おかみさん、左利きじゃね」と客に言われ安堵(あんど)した。皿を片付ける時は盆で隠した。夫は常に前に立ちはだかってくれた。カウンターは心のとりでだった。

 「店を軌道に乗せたかったの。絶対に」。ようやくつかんだ幸せだったと、藤尾さんは言う。絶望の淵から引っ張り上げられたような―。被爆してからの娘時代は、ただ生きるのがしんどかった。

 ケロイドをさらすのが嫌で学校に行かず、家に引きこもっていた。だが生活の苦しさがそれを許さなかった。16歳、同市内の会社で働き始める。「原爆の落とし子」。右手に巻いた包帯を見て同僚たちは言った。

 「心を許せる人はおらんかった。弁当も屋上で独りぼっちで食べてました」。孤立する中、見初めてくれた男性がいた。料理人として会社に出入りしていた弁次さんだ。プロポーズされて舞い上がったのもつかの間、料亭を営んでいた向こうの家族に猛反対された。「客の前で手を出されんような嫁を、無理してもらわんでもいい」と。

愛情が傷ふさぐ

 失意で海に身を投げようとしたそのとき、追い掛けてきた弁次さんに体をたぐり寄せられた。「あんたは何も悪くない。国の犠牲になったんだから、堂々としていればいい」

 一度は諦めた結婚。その夢をかなえてくれた、弁次さんに寄り添って生きると決めた。店ではどうしても引け目を感じ、カウンターに隠れる自分が悲しかった。でも、毎日がいとおしかった。独りぼっちではなかったから。

 戦争をし、原爆を落としたのも人間。傷ついた被爆者を笑ったのも人間。でもその傷をふさぐ力も、人間にはある。深い愛情で―。居間に改装したかつての店内で、藤尾さんは夫を思い返した。そばにいる気がした。(門脇正樹)

(2015年8月1日朝刊掲載)

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