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[戦後70年 継承しまね] 被爆後に見た惨状証言 邑南「歩こう広島まで」学習会で元本紙記者

 70年前に広島市で被爆した人たちが島根県邑南町へ避難した道のり約70キロを逆にたどる「歩こう広島まで」の事前学習会が30日夜、同町の出羽公民館であった。広島県内からも含め41人が参加。入市被爆者で中国新聞社の記者として原爆報道に当たった浅野温生さん(83)=広島市南区=の証言を聞いた。(城戸昭夫)

 当時、旧制広島二中(現観音高)2年だった浅野さん。8月6日は母の実家のある上蒲刈島(現呉市)に向かう船で、原爆のきのこ雲を見た。翌7日、広島に戻ると、皆実町の自宅は倒壊。家族は無事だったが、大やけどを負った幼なじみを防空壕(ごう)で見つけた。

 「立ったまま焼け焦げて亡くなった人、下半身が白骨になった孫を背負って歩くおばあさん…。悲惨な状態だった」と語った。

 記者として被爆20年のキャンペーン報道に参加。「被爆前は、多くの人の幸せな暮らしがあったことを想像してほしい」と訴えた。

 28度目となる「歩こう広島まで」は68人が参加予定。4日正午、同公民館を出発、5日午前8時ごろ、平和記念公園に到着する。

 初めて参加する同町高原、瑞穂中3年の三上貴之君(14)は「歩きながら、長い距離を逃げた被爆者の気持ちを感じたい」と話した。

(2015年8月1日朝刊掲載)

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