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被爆死の記者、8月4日の手紙 赴任先の広島から津山の家族へ 身重の妻や子案じる

 広島市へ単身赴任中に被爆死した新聞記者が津山市に残した妻子に宛て、赴任直後の1945年5月末から原爆投下2日前の8月4日までに書き送った手紙11通が遺族宅から見つかった。出産間近の妻と子どもの健康を案じ、被爆前の広島の様子もつづっている。(石川昌義)

 手紙を保管しているのは兵庫県宝塚市の藤間昭代(とうま・てるよ)さん(73)。岡山市に本社を置く合同新聞社(現山陽新聞社)の記者だった父侃治(かんじ)さんの遺品から見つけた。

「警報毎晩出る」

 侃治さんは45年5月に姫路支局(兵庫県姫路市)から広島支社に異動。妻幸子さん(2008年に92歳で死去)が出産間近だったため、4人の娘とともに故郷の津山市に残し赴任した。

 5月27日の手紙は「空襲警報はこちらも毎晩出る」と広島の状況を報告。「物は無くとも心だけは豊かで朗らかな子供にしてやつてお呉(く)れ。こんどはそれを楽しみに帰る」と記す。

 6月には、妻に厳島神社(廿日市市宮島町)のお守りを送った。社殿の写真をあしらった6月11日消印の絵はがきには「子供のみやげをしつかり仕込む 楽しみあれ」とある。

戦況を見つめる

 7月25日の手紙には「廣島(ひろしま)はあれだけ他地方がやられてゐるにも拘(かかわ)らず 爆彈(だん) 燒夷(しょうい)彈一つも落ちない まことに不氣味(ぶきみ)なこと」と書いた。7月1日消印のはがきには岡山空襲(6月29日)に関する記述もあり、悪化する戦況を見つめる観察眼がうかがえる。

 最後のはがきの消印は8月4日。妻子の手紙も広島に届いていたようで、「お父ちやんのことを心配して呉れる氣持(きもち)はとてもうれしく讀(よ)んだ(中略)好きなお酒も呑(の)んでゐるから安心してくれ」とある。「十二、三日頃には帰る心算(つもり)」と記した。

 その2日後、「あの日」を迎えた。原爆資料館(広島市中区)は「被爆2日前に広島から送られた手紙の現存は極めて珍しい。被爆前の生活や家族の情愛も伝わる貴重な資料」とする。

 幸子さんが残した聞き書きによると、侃治さんは下流川町(現中区新天地付近)の合同新聞広島支社近くで被爆。船越国民学校(現安芸区の船越小)で救護を受けた際に託した伝言が親族に伝わり、津山市に連れ帰られたが、8月24日に33歳で亡くなった。

 手紙は、遺品を受け継いだ三女昭代さんが被爆70年を機に整理中に見つけた。昭代さんは「覚えているのは、包帯に巻かれた死のふちに立つ父。娘たちを育てた母が死ぬまで慕い続けた父の姿が浮かんでくる」としのんだ。

 侃治さんの名前は、広島市中区加古町の河岸に立つ「原爆犠牲新聞労働者の碑」(不戦の碑)に刻まれており、この夏も遺族が6日の碑前祭に参列する。

(2015年8月1日セレクト掲載)

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