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関連死証明「母の弔い」 広島土砂災害75人目の犠牲者・長嶋さん 申請奔走の長男が心境

 昨年8月の広島市の土砂災害75人目の犠牲者は、災害から半年余り後に亡くなった安佐南区八木3丁目の長嶋和江さん(86)だった。入院先で住み慣れた自宅に帰ることを望みながら息を引き取った。回復を信じ続け、母への弔いとして関連死を申請した長男(59)が31日、中国新聞の取材に応じ、心境を語った。(久保友美恵、浜村満大)

 長嶋さんは、3月1日に他界した。死因は肺炎。昨年8月20日、土石流にのまれた。自宅から救出され、同区内の病院に搬送された。高熱に苦しみながらも「いつ帰れるかねえ」と語り掛けた。約2週間後の9月3日から意識不明に。長男は回復を信じ、全壊した自宅を車いすでも暮らせるバリアフリーにする改修を進めた。だが、一緒に暮らすという願いはかなわなかった。

 足腰が弱かった長嶋さんは、あの日、長男と自宅1階の別々の部屋にいた。裏の阿武山から土砂が流入。自宅は傾いた。介護用ベッドから落ち、流されかけていたところを長男が助けたが、周囲はがれきの山。長男と長嶋さんは、消防隊員が駆け付けるまで約8時間、土砂と泥水の中で耐えたという。

 「母は災害で命を奪われた。きちんと証明することが弔いになる」。新潟県中越地震の関連死認定の先進例や関連の法律を調べた。磁気共鳴画像装置(MRI)の画像、カルテ…。次々に求められる書類を病院などから取り寄せ、区役所に10回以上通った。

 亡くなるまでの経緯を説明する関連死の申立書。避難先の公営住宅で広告チラシの裏に何度も手書きした。「災害がなければ元気に生きていたに違いない。残念無念であります」

 4月に改修を終えた自宅で1人暮らしを始めた。「だめか」。諦めかけていた7月23日、電話で認定の連絡を受けた。「認めてもらったよ」。仏前で報告した。最愛の母親が亡くなってから、145日がたっていた。

16歳で被爆 苦労の人生 長嶋さん 前向き…穏やかな老後

 広島土砂災害の災害関連死に認定された長嶋和江さんは、原爆で父を亡くし、自らも被爆。戦後をたくましく生きた女性だった。長男が母への思いを語った。

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 母は16歳の時、広島市の松原町(現南区)で被爆した。苦労して生き抜いたこともあって前向きで心(しん)の強い人。結婚後は、私と弟の教育費の足しにするため和裁の仕事をしていた。夜なべをして着物を縫う姿を覚えている。

 老後は、近所の友人との交流や公民館での書道教室を楽しんでいた。80歳くらいで足腰が弱り、介護が必要に。家にいる時間が増えたが、穏やかに暮らしていた。八木に暮らして約40年。危篤状態になる前は「阿武山があんなふうになるとは思わんかった」と話していた。

 母は災害さえなければもっと長生きできたと思う。関連死の申請は苦労したが、母譲りの前向きな性格で取り組めた。関連死申請に関心を持つ人は他にもいる。行政は、被災者の目線に立ち情報を提供してほしい。(久保友美恵)

(2015年8月1日朝刊掲載)

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