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連載・特集

被爆地の70年 坪井直さんに聞く 核廃絶 ネバーギブアップ 「戦争する国」に戻すな

 原爆の惨禍から70年。死の不安といわれなき偏見に苦しんだ被爆者たちは「ほかの誰にも同じ苦しみを味わわせてはならない」と核兵器廃絶の訴えを続けてきた。だが歳月とともに、活動は岐路を迎えている。日本被団協代表委員の坪井直さん(90)は被爆地ヒロシマの「顔」であり、高齢を押して今なお運動の先頭に立つ。今後の継承の手だてをどうすればいいか。戦後日本の非戦の誓いが揺らぎつつある現状をどう考えるのか。原爆の日を前に思いを聞く。(論説委員・東海右佐衛門直柄)

 ―あの8月6日のことを、あらためて教えてください。
 朝食を食べて、千田町にあった大学(広島工業専門学校)に向かっていたんです。爆心地から1・2キロの富士見町辺りでした。左の上の方からシューッと音がした。爆弾だと思って顔を両手で覆いました。カメラのフラッシュが一斉にたかれたようでした。

 周りすべてが銀白色。それからドーンとすさまじい音がした。気づいたら爆風で何メートルも飛ばされていたんです。煙と土ぼこりで先が見えない。どっちに逃げていいのかも分からない。見ると、服はぼろぼろで腕からドクドク血が流れ、腰からは黒い血が噴き出していました。

 ―周りの風景はどうだったか覚えていますか。
 音がすべて消えとった。シーンとして、セミの鳴き声もない。やっとの思いで歩くと、地獄よ。右の目玉が頬にぶら下がって、歩くたびにポロンポロン動いている女学生がいた。飛び出した腸を押さえながら逃げるご婦人もいた。どこが顔だか首だか分からんような人ばかり。「助けてください」と叫ぶ声も聞こえた。気の毒じゃのうと思いながら助けられんかった。

最後の腹を決めた

 ―御幸橋に坪井さんがいたことが知られています。原爆投下の3時間後、中国新聞社カメラマンだった故松重美人さんが歴史に残る写真を撮った場所です。
 「治療所ができた」と聞き、はうように行きました。でも治療所なんてない。もうだめだとへたり込み、最後の腹を決めました。「坪井はここに死す」。地面に小石で書いたんです。私という人間がここで死んだということを残したかった。遺書でした。

 ―生き延びられたのは…。
 警防団や学友に偶然出会って助けられたんです。似島の臨時野戦病院に運ばれた。学校の教室くらいの広さに100人くらいおったかな。一晩で8割くらい死にました。私はずっと気を失っていた。数日後、故郷の音戸からおふくろが私を捜しに来たんです。「直やぁ、直はおらんかぁ」って必死に叫び回ったらしい。その時「ここにおるよ」って意識のない私が手を挙げたそうです。それで助かった。母親の愛のおかげです。

 ―戦後、被爆者運動に取り組んだきっかけは何ですか。
 療養後、中学校の教師になりました。被爆体験をいつも話したから、あだ名は「ピカドン先生」。でも平和運動に取り組んだのは退職後です。知り合いに頼まれ、断り切れなかった。周りにずっと助けられてきた恩返しをしたい。その一心でした。原爆症も昔は1%しか認定されとらんかった。日本被団協が主導して集団訴訟を起こし、認定基準が広がりました。援護策はかなり進んだと思います。でも足りない面もある。被爆証言で「つらかった、地獄じゃった」と伝えても、それだけではお涙頂戴です。70年を節目に、核廃絶を世界にもっと訴える。これが大切。

 ―被爆者が老いる中で、どう運動を盛り上げたら。
 被爆者はいずれいなくなる。これは仕方ないんです。被爆者だけでずっと運動はできない。まずは2世や3世に運動に入ってもらいたい。いずれ被爆者団体の名前も変わるでしょう。例えば「平和推進協議会」などのように被爆者という文言は、なくなるのではないか。核兵器廃絶を求めるもっと幅広い人たちが集まる組織へと変えんといけんと思う。

悲観はしていない

 ―被爆者の役割はまだ大きいはずです。このところの核をめぐる国際状況を考えても。
 世界の動きは、まさに浮きつ沈みつです。国際司法裁判所(ICJ)が、「核兵器の使用は一般的に国際法に違反する」と判断した際は拍手喝采した。オバマ米大統領のプラハ演説にも感動した。でもことしの核拡散防止条約(NPT)再検討会議は決裂。なかなか思うようには進まんよ。でも悲観はしとらんのです。いつか廃絶できる。

 ―「核兵器廃絶の先頭に立つ」とする日本の役割も問われます。
 正直おもしろないよね。日本政府は核兵器を禁止する条約の構想にも反対しとる。廃絶を求めると言いながら、核の傘に入って、結局アメリカの後ろを歩いているだけじゃ。あっち向いたり、こっち向いたり。品がない。歯がゆいんよ。揚げ句の果てに今、憲法9条を骨抜きにしようとしとる。

 ―安全保障関連法案ですね。
 こんな大きな問題をね、与党の数の力で変えていいのかと思う。ほとんどの学者も違憲だと言っているのに、解釈で憲法を変えるのはおかしい。100時間審議したからいい、という問題じゃない。「国を守るため」というなら、まず外交で話をするのが先。それでもというなら、「何かあったときは政治家が真っ先に(武力行使の)現場に行きます」と書いて判を押せ、と思う。戦争では、若者と子どもに大きな犠牲が出るんです。70年前も「国を守れ」と言われて戦争に駆り出され、原爆を落とされた。そして戦後は「戦争だったから仕方なかった」と言われた。それを今の政治家は全く分かっていない。このままではまた戦争する国にまた戻るんじゃないか。そう思うんです。

遺言のこす気持ち

 ―ご自分にとっても「70年は大きな節目」と言っておられました。率直な心境は。
 御幸橋の写真を時々見るんよ。もう死ぬる、と思った20歳の頃。生死を分けたのがあそこじゃった。いま写真を見ると感慨深いです。あれから70年。本当によう生きた。被爆して、たくさんの人に助けてもらいました。そのご恩返しをしたいと、ずっとやってきました。病気で何度も入院しても、危篤状態に3回陥っても、「もうすぐ棺おけ入るけぇ」と冗談にしてきた。本当はね、「原爆を生き延びたのに、こんな病気ぐらいで死ねるか」と心の中でずっと思ってきたんです。

 でも最近、体が動かん。今回、遺言をのこす気持ちで話しました。長く生きた。もまれもまれて、ここまできた。いつか核兵器が廃絶されるのを見たい。でも私が見られなくても、後世の人が必ず成し遂げてほしい。頼みますよ、若い人たち。絶対に諦めちゃいかん。ネバーギブアップ!

つぼい・すなお
 1925年生まれ。広島工業専門学校(現広島大工学部)3年生の時、爆心地から約1.2キロの広島市富士見町(現中区)で被爆。中学教師や校長を経て、94年から広島県被団協事務局長、2004年から理事長。00年からは日本被団協代表委員。呉市音戸町出身。

(2015年8月2日朝刊掲載)

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