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被爆66年 語り合う痛み 心にとげ 供養へ証言 元女子挺身隊・佐藤さん

 また原爆が落ちるかも…。廿日市市の佐藤泰子さん(83)は恐怖から最期をみとった中学生の遺族を被爆の翌日、現場に案内できなかった。「なぜ連れて行かなかったのか」。後悔のとげは66年がたっても胸に刺さって抜けない。

 広島市南区にあった広島陸軍被服支廠(ししょう)。女子挺身(ていしん)隊として働いていた佐藤さんはあの日、2階の事務室で被爆した。爆心地から2・5キロ。頑健な建物だったこともあり、屋内の佐藤さんは無事だった。

 だが事務室には負傷者が次々と運ばれ、急ごしらえの救護所に。一人の少年が「県立(広島)第一中学校1年1組三宅等。1等2等の等」と名乗った後、亡くなった。告げられた住所は佐藤さんの近所だった。夕方に家を訪ね「最期まで立派でした」と伝えた。両親は泣き崩れた。

 翌日、佐藤さん宅に父親と兄が担架を持って訪ねてきた。遺体を収容したいという。被服支廠へ同行を頼まれた。だが前日の恐怖で首を縦に振れなかった。肩を落とし帰った2人の後ろ姿は今も目に焼き付く。

 「なぜ親の心をくみ取れなかったのか」。結婚し、子をもうけると自責の念がさらに膨らんだ。あの時のことを謝りたい。8年前に広島一中の後を継ぐ国泰寺高に問い合わせたが、遺族の連絡先は分からなかった。

 6日、被服支廠を訪ねた佐藤さん。「学生が水を求める声が響いていた」と振り返った。当時の面影が残るれんが造りの建物の前。「ごめんね」。空を仰いだ。

 原爆の悲劇を繰り返したくない。佐藤さんは昨年から詩吟など趣味の集まりの場で被爆体験を語り出した。「後悔の思いは一生拭えない。けど、供養のためにあの日のことを伝え続けたい」。そう誓う。(野田華奈子)

(2011年8月7日朝刊掲載)

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