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連載・特集

被爆70年 悲しみがここに <3> 飯田清和さん=大阪市

あの日を知るそろばん はじくたび 後ろめたさ

 当時9歳、広島市中区の舟入国民学校(現舟入小)初等科3年。爆心地から約2キロの校庭で被爆した。避難した呉市では、「ピカドンの子」と言われいじめられた。それから、被爆者であることをひた隠しにして生きた。ただ、このそろばんを手にすると被爆の記憶が呼び起こされた。焼け跡から捜し出せた、たった一つの所持品だった。

 外枠はしっかりしているが、梁(はり)に亀裂が入り、今にも外れそうだ。両サイドを輪ゴムで固定している。母に買ってもらったそろばん。倒壊した校舎のがれきの中から奇跡的に見つけた。自宅も焼けてしまったから、被爆当時の持ち物といえばこれしかない。

 それなのに、どちらかといえば見ないようにしてきた。被爆者である過去を封印したかった。その理由をたどると、少年の胸に刻んだ悲しみに行き着く。

転校先でいじめ

 原爆で家を失い、一家は呉市の親戚宅に身を寄せた。転校先の国民学校で待っていたのは、級友からのいじめ。髪が抜けて白黒まだらになった頭を見て、からかわれた。ピカがうつるわ。あっち行けや―。「みじめやった。ほんで決めたんです。被爆のことはもう誰にも言うまいと」

 約1年後、奈良市の別の親戚の元へ一家で移る。新しい級友には話題をはぐらかしながら、広島から来たことを隠し通した。いじめに遭うことはなくなった。貧しかったから懸命に生きた。過去を思い返す隙間もないほどに。

 ただ、そろばんを使う授業だけは違った。取り出すたび飯田さんの胸は痛んだ。「被爆のことを知ってるのは、教室の中でこいつだけ」。逃げ隠れしているような後ろめたさがあった。

 進学した定時制高校でも、職場でも、被爆者であることを明かさなかった。25歳で結婚した妻にも。被爆者には子どもはできん―。世間のうわさを、自分も信じていたという。だましてるようで、怖かった。

結婚11年目 告白

 胸の重しが取れたのは、結婚11年目の夏の朝。広島の平和記念式典を映すテレビの前で手を合わせる飯田さんに、妻が聞いた。「なんで毎年そんなことしてるん」。既に3人の子宝に恵まれていた。もう潮時だと、飯田さんは打ち明ける。すると妻は笑って言った。「隠さんと、早よ言うてくれたらえかったのに」

 妻が受け止めてくれたから、今の自分がいるのだと思う。大阪の空襲の歴史に触れたことも、半生を顧みるきっかけになった。隠れて生きててええんか。自分にしか語れないことがあるかもしれんのに―。60代半ばから、大阪で被爆の語り部をしている。

 あの日、自分と同じ場所にいたそろばん。被爆者である事実と向き合えと、語り掛けてくる。「あとどんだけ生きられるんか分からんけど、心の奥にしまい込んでた分、余生を全力で語り継ごう思うてるんです」(教蓮孝匡)

(2015年8月2日朝刊掲載)

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