×

連載・特集

広島ならではの平和発信の場 8年目のピースナイター 5・6日開催 カープと結びつく歴史あればこそ

 広島東洋カープが毎年、8月6日に近いホームゲームで催すピースナイター。被爆70年のことしは、前身の「折りづるナイター」から数えて8年目となる。この時期に被爆者を追悼し、核兵器廃絶を訴える行事が集中する中で異色のイベント。「野球」と「平和」がすんなり結びつく広島とカープの歴史があるからこその企画といえる。地域が一体になって建設にこぎ着けたマツダスタジアム(広島市南区)の使い方にも先鞭(せんべん)をつけた。(増田泉子)

 ピースナイターの定番プログラムは、五回終了時のピースライン。ジョン・レノンの「イマジン」が流れる中、観客はメッセージを込めた緑色の中国新聞を一斉に掲げる。内野自由席の最上段から2列だけは赤色をかざす。原爆ドームと同じ高さ25メートルに赤いラインが浮かぶ。この日スタジアムに集うすべての人が参加して、初めて完成する。ことしは5日に実施する。

スタンド一丸で

 「8月6日がどういう日か。広島には伝える責任があり、カープもその一員」と松田元オーナー。原爆がいつ投下されたかを正確に答えた小学校高学年は33%、中学生は55%―。2010年の広島市教委の調査結果にショックを受けた。「選手も含めて、日付ぐらい覚えとってくれやという思い」と語る。

 きっかけとなった「折りづるナイター」は、旧広島市民球場の最終年の08年に開いた。20年までの核兵器廃絶を掲げる平和市長会議(現平和首長会議)の取り組みの一環として、生協ひろしまと広島平和文化センターが提案。球団は場所提供という形で協力した。

 翌年にマツダスタジアムが完成。球場が原爆ドームから離れたこともあり、主催に球団などが加わり、平和そのものを訴える内容に軌道修正した。

 ピースラインは松田オーナーが発案した。お手本は米大リーグ、コロラド・ロッキーズの本拠地。地元デンバーの標高が1マイル(約1600メートル)であることから、同じ高さの列だけ座席の色を変えてラインを作っているのを参考にした。

 とはいえ、スタンドで一面の緑色の中に赤の一直線を引くには、対戦チームのファンの協力が欠かせない。当初から企画に携わる生協ひろしまの横山弘成専務理事は、バックスクリーンで松田オーナーと並んで赤いラインを見届けた瞬間が忘れられないという。

著名人が始球式

 11年からは著名人を始球式に招くようになった。1人目は、広島で被爆し、復興期に野球やカープが果たした役割を漫画で表現した故中沢啓治さん。「思ってもみなかった」と子どものように喜び、捕手に球が届かなかったのを悔しがった。12年は元プロ野球選手で被爆者健康手帳を持つ張本勲さん。2年越しで日程を調整して里帰りした。

 初めて8月6日に開催した13年は、セ・リーグ全球団が賛同し、当日公式戦のあった福島、静岡の球場でも平和や東日本大震災からの復興を祈った。

 ことしのピースナイターは5、6日の阪神戦2試合。5日は広島の被爆2世のバレリーナ森下洋子さん(66)が始球式に登場、6日はカープの全員が背番号「86」のユニホームで戦う。

 マツダスタジアムは誕生以来、自治体やさまざまな団体がアピールの場に活用している。松田オーナーは「地域で造ってもらった器なので、存分に活用してもらいたい。ピースナイターはそのベース。ずっと続ける」と話す。

実行委員長 横山弘成生協ひろしま専務理事 8・6 次代に伝える手伝いを

 生協で平和活動に取り組んできたが、学習会や平和行進に参加する組合員はごくわずか。なんとか敷居を下げたいと考えたのが、「みんなカープが好きじゃから、あそこでできんかね」だった。球団も地域社会の一員であると自覚されていて、実現した。

 2013年に他球団に趣旨を説明に行った。「広島ではなぜ野球に『平和』が浸透しているのか」と聞かれた。「下地がないと扱いづらい」とも言われ、ピースナイターが広島ならではの企画であることを再認識した。

 原爆で傷ついた市民の希望として歩んできたカープの歴史と、それを支えてきたファンの平和を願う気持ちの強さがあるから、ピースナイターが続けられる。「8月6日」を次代に伝えるお手伝いをしたい。

ピースナイターの歩み

開催日        対戦相手 始球式
2008年8月26日 ヤクルト
  09年9月15日 中日
  10年8月 5日 横浜
  11年8月 5日 巨人   中沢啓治さん
  12年8月 5日 阪神   張本勲さん
  13年8月 6日 阪神   ミュージシャン 吉川晃司さん
  14年7月30日 中日   元カープ選手 山本一義さん

※08年は旧広島市民球場、09年~マツダスタジアム

(2015年8月2日セレクト掲載)

年別アーカイブ