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連載・特集

びんごの70年 福山空襲 <1> 夜襲 焼夷弾の雨 街は火の海

 1945年8月8日夜、福山市街地は米軍機が投下した焼夷(しょうい)弾の火に包まれ、354人の命が失われた。70年を経た今、証言や資料から、空襲の実相と当時の住民心理などを探る。(小林可奈、衣川圭)

 「あのあたりにあった防空壕(ごう)で顔にやけどを負ったんです」。福山市古野上町の近藤茂久さん(81)が自宅近くの駐車場を指した。木枠に土のうを積んで造った壕は、近所の3、4世帯が逃げ込むことになっていた。

明るさ昼のよう

 近藤さんは当時、国民学校の6年生。午後10時ごろ、鳴り響く警報を自宅で聞き、両親や妹たちと防空壕に駆け込んだ。照明弾で周りが昼のように明るくなった直後、焼夷弾の雨。壕にも火を噴く弾が飛び込んできた。

 「安全だと思っていた壕にまさか弾が来るとは」。慌てて壕を出た近藤さんたちは、市街地が火の海となるのを見ながら近くの小川に逃げ込んだ。「熱くて熱くて」。濁った水を懸命に飲んだ。

 米軍が空襲直後にまとめ、70年に公開された戦術作戦任務報告書などによると、当初は昼間に兵器工場などを攻撃する予定だった。しかし、出撃地の太平洋北マリアナ諸島(米自治領)テニアン島の米軍の滑走路が事故で一時封鎖されたことに伴い、民家の密集地を含む市街地の夜間攻撃に変更されたという。

 飛来した米軍機91機。防空壕で起きた悲劇も多かった。防御のための「密室」で火に囲まれ、身動きが取れなくなったのだ。9人が亡くなった大型の防空壕もあった。

防空壕 役立たず

 当時、敵機の来襲に備え、国は防空壕造りを推奨していた。裏庭や畑に穴を掘って、木切れをかぶせただけの粗末な壕も多かったという。

 「そんな防空壕は役には立たんのですよ。壕で蒸し焼きになって亡くなった人もいた。小さな子どもまで巻き込まれて。悲惨なことです」。当時14歳だった道三町の木村滋さん(84)は証言する。

 当時の防空法は国民に自宅などの応急消火を義務づけていた。防空壕の安全性は信じていなかった木村さんも、火を消そうとぎりぎりまで粘ったという。衰えない火勢。腰が抜けかけた母親に水に漬けた布団をかぶせ、約1キロ離れた芦田川まで逃げた。

 川を渡って後ろを振り返ると、ちょうど赤く染まった福山城の天守閣が東側へと崩れ落ちた。「この戦争は駄目だ」。木村さんは敗戦を痛感した。

福山空襲
 1945年8月8日午後10時25分ごろ、91機の米軍B29爆撃機が福山市の上空に飛来。約1時間にわたって焼夷(しょうい)弾を投下した。市街地の約8割に当たる314ヘクタールが焼失。354人が犠牲になり、1万179戸が焼失した。

(2015年8月3日朝刊掲載)

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