×

連載・特集

たどる戦争の記憶 <上> 学童疎開 寂しさ・空腹 耐えた日々 広島

 戦時中、直接的に大きな「戦場」とならなかった県北。だが、学童の集団疎開や被爆者の救護、朝鮮人の強制労働など、この地ならではの戦争体験がある。終戦から70年。「生き証人」や、残された証言を基に、記憶をたどる。

 「11歳で飢えに苦しむ毎日と家族との死別。想像できますか」。70年前の疎開先だった三次市廻神町の善徳寺で、川本省三さん(81)=広島市西区=が、7月下旬、講演に立った。かつて学友と布団を並べた本堂。三次の子どもたち約50人が、耳を傾ける。

 親元を離れた寂しさや空腹に苦しめられた疎開生活、原爆で両親ときょうだい計6人を失ったこと、自らも3日後に入市被爆…。「終戦後も『戦争』は続いた」。川本さんの口から苦難の人生がよどみなくあふれ出る。

「野草も食べた」

 1945年4月、善徳寺には袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)の3年生以上の男子児童約50人が疎開。6年生だった川本さんは、神杉国民学校(現神杉小)に転入した。食事は小さな茶わん一杯の麦飯が1日3度。いつもひもじい思いを抱えていた。カエルやイナゴ、野草など「食べられるものは何でも食べた」。

 人手不足を補うため、イモ畑の開墾に当たった。8月6日の朝、山の中腹の畑で、広島上空にきのこ雲が上がるのを見た。「下級生が悲しむから」と、不安な気持ちを押し殺した。

 本堂には当時、寮母として児童と寝食を共にした尾茂年江さん(91)=三次市廻神町=と福原フミコさん(94)=同=の姿もあった。炊事や洗濯など身の回りの世話に当たった。

 「子どもに少しでも栄養を」と近隣に野菜をもらいに歩いた。ノミやシラミに吸われた血で真っ赤に染まった布団を洗い、釜で衣服をゆでて殺菌した。「おねしょをしたり、寂しそうにしたりする子もいた」。その姿が今も脳裏をよぎる。

多くが原爆孤児

 都市部での空襲が激しさを増す中、広島市から中高学年の児童8500人前後が三次、庄原市などの県北に集団疎開したとされる。寂しさから広島へ帰ろうと逃げ出す子どもや、子どもの面会に訪れる親もいたという。

 疎開児童の多くが原爆で両親を失い、孤児となった。川本さんもその一人。10年前から、原爆資料館(広島市中区)でガイド役のピースボランティアを務める。「神杉の人たちが温かく迎え入れてくれたから今がある」。若い世代に体験を語り継ぐ。(野平慧一)

(2015年8月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ