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連載・特集

びんごの70年 福山空襲 <2> 狙われた軍施設 基地一帯 銃弾降り注ぐ

 70年前、大津野村(現福山市大門町)にあった福山海軍航空隊基地の一帯は機銃掃射に見舞われた。体験した人たちは「7月だった」と証言する。

 「バリバリッと爆音が聞こえ、防空頭巾をかぶって草むらに逃げ込んだ。生きた心地がしなかった」。大津野国民学校(現大津野小)の教諭だった福永絢子さん(88)=同市坪生町=は振り返る。

偵察機や攻撃機

 当時18歳。同僚教諭2人と徒歩で通勤中の午前7時半ごろ、大きな音を聞いた。反射的に見上げた空には、飛行機が2機。機体の星マークが脳裏に焼き付いている。

 福山海軍航空隊は、詫間海軍航空隊福山分遣隊を廃止し、1945年3月に開かれた。基地には観測機や偵察機、攻撃機などが置かれた。特攻隊員9人が九州を経由して沖縄に向けて出撃し、命を落とした。

 同じ敷地内にあった航空機乗員養成所では、「お国のため」と飛行機乗りを志した当時14歳の2人が、米軍機による銃撃を経験した。田辺守さん(84)=同市引野町=と、佐伯新三さん(84)=同市横尾町。「昼の休憩時間だった」と記憶をたぐる。

兵舎ベッドに穴

 2人は別々の場所でキューンという音を聞いた。しばらくして銃弾が降り注いだ。兵舎の田辺さんのベッドには穴が空き、私物入れの箱も貫通していた。敵機を欺くために置いていた布張りの飛行機には無数の弾痕。隊の守衛は足を撃たれてけがをしたという。

 「志願した以上、生きて帰れるとは思っていなかった。米軍が福山の航空隊に来るのは覚悟していた。恐怖は感じなかった」。佐伯さんは話す。

 当時の福山市域は現在の8%に満たない約40平方キロで、人口は6万人足らず。決して大きな都市ではない。しかし、米軍は、近くの大津野村の航空隊や市内の陸軍歩兵第41連隊、三菱電機などの軍需工場の存在、木造住宅が密集する市街地の状況を把握していた。

 市人権平和資料館が昨年刊行した記念誌の年表には、同基地周辺への空襲は45年7月2、24、25日の3回が記されている。しかし、同館によると、執筆を担当した郷土史研究家は死去。詳しい記録もなく、詳細は分からないという。

 福山空襲は翌8月の8日夜。焼夷(しょうい)弾に街が焼かれる日は近づいていた。(小林可奈)

福山海軍航空隊
 1944年、詫間海軍航空隊(香川)の福山分遣隊が設置され、翌45年、福山海軍航空隊になった。旧逓信省航空局の水上飛行場があり、設備が整っていたのが旧軍進出のきっかけという。航空隊への初めての空襲は、米軍が中四国の飛行場や軍事施設を目標に攻撃した45年3月19日とする見方もあるが、夏だったという証言が多い。現在はJFEスチール西日本製鉄所福山地区の敷地の一部。

(2015年8月4日朝刊掲載)

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