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「あの日」まで 家族の文通 原爆で父と姉が犠牲 広島の田辺さん 疎開中の70通 手記に

 広島市西区の田辺芳郎さん(78)が、疎開中の1945年4月から8月まで、市内の両親や戦地の兄と交わした70通の手紙を70年ぶりに読み返し、近く手記にまとめる。最後の1通は1945年8月6日の消印。父親に宛てたが、原爆で犠牲になり、読まれないまま戻ってきた。「同じ悲劇が二度と起きてはいけない」。あの日まであった家族の文通の記録から平和への願いを紡ぐ。(田中美千子)

 「おとうちゃん、お元気ですか。八月にこられるといふのでうれしくてたまりません」。当時、田辺さんは広島高等師範学校国民学校(現広島大付属小)3年。天気の話、空襲警報が最近鳴らない…。A4判の半分ほどの茶色の便箋に1枚。10行ほどの鉛筆書きの幼い文字が並ぶ。

 封筒には、「罹災戻(りさいもどし)」の朱印の跡。疎開先の西城町(現庄原市)から広島市国泰寺町(中区)の父、次郎さん=当時(52)=に宛てて投函(とうかん)しながら自宅が被災していて届けられなかったことを意味する。

 4人きょうだいの末っ子の田辺さんは4月に疎開すると、両親と姉2人、戦地に赴いていた兄と手紙をやりとりした。まとめて送らず、一人一人に宛てた。

 次郎さんからの返信は「其(そ)の内には御家にかへって皆と一緒に居れるやうになる。キットキット間違なく」。県庁に勤めていた長姉の倫子さん=同(18)=は「よしちゃんの顔がまた見たくなりました。おやすみがあれば行きませうね」。文面から愛情があふれ出ている。

 その2人が原爆に奪われた。父は自宅付近で見つかった後に広島湾に浮かぶ金輪島へ運ばれ「8日に亡くなったらしい」と聞いた。長姉は行方不明のまま。空襲を避け、牛田町(東区)の知人宅にいた母と次姉が生き延びた。9月半ば、疎開先から戻って父と姉の死を知り、泣いたという。戦後は兄が復員。判事となり、一家を支えてくれた。

 今、手元にある70通のうち35通は自分が、残る35通は家族がしたためた。4年前に兄が亡くなり、全てが家族の形見だ。

 田辺さんは、兄が中心となって98年に金輪島に建てた慰霊碑を守る。ことしも暑さが和らいだ10月4日に慰霊祭を営む。市の資料では、島の陸軍施設には約500人が収容された。開始当初は40人ほどいた参列者は年々減り、一昨年は6人。「戦争や、原爆の犠牲が忘れられないよう、何があったか残したい」。一念発起した手記は自作の短歌で締めくくるつもりだ。

 遺族老い 訪(と)う人の減る金輪島 原爆慰霊碑 一基が立てる

(2015年8月4日朝刊掲載)

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