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学徒の惨劇伝える水筒 市中生の次男捜す父 動員現場跡で拾う 長男坂上崇さん 6日 慰霊碑に納める 広島

 1945年8月6日の惨禍を伝える水筒があった。爆心地から約800メートル。広島市小網町(現中区)の建物疎開作業に動員された、市立中(現基町高)1年の次男を捜しに入った父が動員現場跡で見つけた。それに水をくんでは学徒らに飲ませた。市中1期生でもある長男が受け継ぐ。父の思いも込めて被爆70年の6日、市中慰霊碑の石室に納める。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 県教育課に所属していた坂上(さかのうえ)善作さん(1884~1968年)は、東観音町(現西区)の自宅で被爆したが、けがは軽く、次男彬(あきら)さん=当時(12)=が出た小網町の動員現場へ向かった。

 「父は、真っ黒な顔でうずくまる人たちから水を求められ、やむにやまれず、その場で拾った水筒に噴き出していた水を入れ、飲ませて回ったそうです」

 長男で市中4年生だった崇さん(85)=西区山手町=は、原爆の日が近づくたびに父が口にした現場の直後を語った。崇さんも現廿日市市の動員先から全焼した自宅跡へ戻り、小網町へ。男女の見分けもつかない遺体が続いていたという。

 彬さんは運ばれていた大野陸軍病院(現廿日市市)で9日、崇さんが見つけたが息を引き取る。小網町に出た市中1、2年生は315人が死去した。

 小網町一帯には、県女(現皆実高)1年生や西高女(原爆後に廃校)と安芸高女(同)の各1、2年生、崇徳中3年生なども動員され、死没学徒は少なくとも1216人を数えるとみられる(市刊行の「広島原爆戦災誌」)。

 「たまたま学年が違っただけで生死を分けた」。崇さんと同級の久永昌司さん(86)=東区牛田南=は、元学徒としての複雑な思いを水筒を前に語る。小網町の天満川河岸緑地に立つ市中碑の前で、現在は基町高同窓会が営む慰霊祭に必ず参列している。

 崇さんは「水筒は小網町で倒れた犠牲者の持ち物のはず。父が『特別なものだ』と言っていた思いも残したい」と、動員現場に近い碑の石室に納めることを決めた。久永さんも「若い人たちに、水筒に刻まれた惨劇に思いをはせてほしい」と願った。

(2015年8月4日朝刊掲載)

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