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岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介 母校の東京芸大調査へ

 広島に投下された原爆で40年の生涯を閉じたバイオリニスト岡田二郎に今夏、70年ぶりに光が当てられる。広島交響楽団が5日に開く「平和の夕べコンサート」で配布するプログラムの中で、音楽ジャーナリスト岩野裕一さん(50)=東京都=がその存在を紹介する。岡田の母校、東京音楽学校(現東京芸大)の所蔵資料からは戦前の音楽界で果たした役割の大きさがうかがえ、同大も調査に乗りだす。(客員編集委員・冨沢佐一)

 岡田は1905年、府中市の生まれ。広島高等師範学校付属中(現広島大付属高)時代に高師の教授だった長橋熊次郎の授業を受けたことなどがきっかけでバイオリンに魅せられ、長橋の母校でもある東京音楽学校へ進んだ。

日本初演を次々に

 卒業後は同校の教官(後に助教授)に就任するとともに、同校管弦楽部のビオラ奏者を務めた。同管弦楽部の指揮者クラウス・プリングスハイムは作曲家マーラーの弟子だったこともあって、大規模な編成を必要とするマーラーの交響曲第2、3、5、6、7番などの大作の日本での初演を次々と試みた。岩野さんによると、岡田はその全ての舞台に立ったという。

 38年からは第2バイオリン奏者となり、40年に行われた在京6団体合同の紀元二千六百年奉祝記念交響楽団にも参加した。しかし、翌年始まった第2次世界大戦のため管弦楽部の活動は次第に縮小され、44年2月の演奏会を最後に休止した。岡田も45年3月に同校を辞職し帰郷。広島県立第二高等女学校(現皆実高)の音楽教師となった。

 45年8月6日、爆心地から2・3キロの広島市南観音町(現西区)の自宅で被爆。けがはなかったが、既に亡くなっていた恩師長橋の妻八重子らを捜して広島市内の焼け跡を歩き、同月25日に急死した。吐血や腹痛などの症状から、放射線障害と考えられる。

 被爆70年のことし、岡田の存在を知った岩野さんは「マーラーなどを演奏する喜びを知った岡田が、平和の訪れた広島の地にオーケストラをつくることを夢見たとしても不思議ではない」と指摘する。

 東京芸大所蔵資料によると、岡田はバイオリンの独奏会もよく開き、日本を代表するピアニスト井口基成(元桐朋学園大学長)が伴奏を務めたこともある。教え子には、後にNHK交響楽団奏者になった本間健三がおり、岡田が同僚と書いたバイオリンの教則本が戦後発行されている。

 岡田の恩師長橋の義弟で東京音楽学校の教官だった遠藤宏は戦後、広島県立女子専門学校(現県立広島大)の講師となり、広響の前身ともいえるNHK広島放送管弦楽団の設立にも尽力。岡田の人脈は現在の広響にもつながる。

原民喜と文学仲間

 また、岡田は広島高師付属中時代、同級生の原民喜らと文学仲間だったことも資料からうかがえる。田山花袋の小説「蒲団(ふとん)」のヒロインのモデルとして有名な文学者岡田美千代は叔母に当たる。

 東京芸大で大学史を研究している橋本久美子特任助教は「こんなに重要な人物が知られていなかったことに驚いた。東京音楽学校作曲科には学徒出陣して亡くなった学生も2人おり、これを機に、岡田と併せて調べたい」と話している。

(2015年8月4日朝刊掲載)

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