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連載・特集

被爆70年 悲しみがここに <5> 中村博さん=広島県府中市

破いた退学証明書 原爆の痛み やり切れん

 当時13歳、広島県東部の旧制中学2年生。学校から1人だけ、国鉄に学徒動員された。広島駅近くの広島第一機関区に配属され、爆心地から約1.8キロの広島市段原大畑町(現南区)の寮で被爆。学校生活に戻ると脱毛や歯茎からの出血が始まる。級友たちの心ない言動を苦に自主退学した。悔しくて破いた退学証明書の下半分が残る。

 破いて捨てたと思っていたのに―。この7月、茶だんすの奥から出てきた。古い封筒の中に、下半分だけが入っていた。70年ぶりに手に取る。息ができなくなる。1945年の年の瀬、この紙をもらった日。部屋で1人、声を殺して泣いた。怒りとみじめさで、心がどうにかなりそうだった。

 「運命とは、まあ、こんなにも残酷なんかと、子どもなりにやり切れんかったです」。原爆に遭い歯車が狂いだした人生を、中村さんは思い返す。

「ピカがうつる」

 被爆から2日後、県東部の実家に戻ることができた。9月、新学期が始まってから、体の異変に気付く。日ごと、髪が大量に抜けるようになった。ぞっとして、学校では帽子をかぶって隠した。ところが体育の授業で帽子を脱がされた、そのとき。風に吹かれて髪の毛がぱらぱら散り、みんなが悲鳴を上げて風上に逃げた。

 食事の後に手洗い場で口をゆすぐと、歯茎から血が出ていた。血を吐いたと勘違いした生徒や、先生までもが後ずさりしていなくなった。あんなに仲がよかった友人が言う。「ピカがうつる」「ピカを受けたもんは血を吐いて死ぬるんじゃ」…。

 なぜだ。学校から1人ずつ集められた国鉄での学徒動員。志願し、誇らしい気持ちで向かったのに。被爆して、生き残ったんがいけんかったんか―。学校へは行かず、次第に近くの山や街中で過ごす時間が増えた。年末、退学届を出した。

狂わされた人生

 この紙切れを残しておいた13歳の自分に、中村さんは思いをはせる。「憧れの旧制中学に在籍した証しを残しておきたかったんでしょう」。もっと勉強したかった、体育の先生になりたかった。原爆がなければどんな人生だったろうと、今も考えることがある。成人後も慢性的な微熱や腹痛、白血球の病気に悩まされ続けた。今月、6度目のがんの手術が控える。

 差別や偏見は原爆の仕業。それは分かっている。核という得体(えたい)の知れない化け物に、みんな翻弄(ほんろう)されていたのだろうと。でも―。人は忘れやすい。被爆から30年たったころ、旧制中学時代の友にあの時の悔しい気持ちをぶつけたことがあった。相手は覚えていなかった。「そんなこと、あったかいのう」と。

 原爆の痛みを、その悲しみを忘れてはならない。だから命が絶えるまで、中村さんは語り続けると決めている。「もう若い人の人生を、狂わせるわけにはいかんのです」(標葉知美)=おわり

(2015年8月4日朝刊掲載)

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