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連載・特集

[つなぐ~戦後70年 山口の被爆者] 入市被爆した大内塗職人・小笠原貞雄さん=山口市

腐敗臭・うめきの中救護 ほほ笑む人形 平和象徴

 筆先に神経を集中させ、左手に持つ丸みを帯びた人形に切れ長の目とおちょぼ口を描き、ほほ笑みの表情を浮かび上がらせる。「穏やかな暮らしがいつまでも続きますように」と願いを込めて。

 90歳を前にして、山口県の伝統的工芸品、大内塗・大内人形の現役職人。70年前の広島での被爆が、運命を変えた。

 当時18歳。広島市皆実町(現在の広島市南区)の自宅に近い旧陸軍被服支廠(ししょう)で働いていた。軍人の衣服や靴を作る工場の機械班。1945年8月6日は工場疎開の準備で三次町(三次市)に出張していた。午後、やけどを負った人たちが次々と広島から逃げてきた。「広島が壊滅した」「自分の真上で爆弾が爆発した」と聞いた。

焼き続けた遺体

 広島へ救護に向かうため人が集められた。トラックの荷台に載せられ7日早朝、横川駅(広島市西区)周辺に着いた。映画や芝居を楽しんだ街並みが消え、見えないはずの瀬戸内の海が目に飛び込んできて、あぜんとした。

 被服支廠は臨時救護所となった。倉庫に負傷者を運び入れ、患部に赤チンを塗った。手当てをするため女性に掛けてあげた布を取った時、背中の皮膚が一緒に剝がれたのを今もはっきり覚えている。

 担当した倉庫には、子どもと女性、お年寄りが多かった。「服装から軍人ではない人ばかりだった」。内部は腐敗臭に満ち、うめき声がやまなかった。「私が三次に戻る13日まで、生きて倉庫を出た人はいなかった」という。

 息絶えた人を外に運び出し、焼いた。火の中で肉の縮むさまが、生きているかのように見えて怖かった。「遺体を焼き続け、人を人とも思わなくなっていた」と悔やむ。

親戚頼り弟子に

 自宅は爆風で壊れた。両親は宇品町(同市南区)で勤労奉仕中に被爆した。終戦後、大内塗職人の遠い親戚を頼り、両親と山口市に移った。弟子入りし、翌年の憲法公布の日、職人の長女と結婚。家族を養うため必死で働いた。

 戦災被害を免れた山口は、広島と比べ「夢みたいな場所だった」と振り返る。工房は山口市道場門前の一角。生きていくため飛び込んだ職人の世界だが、夫婦で並ぶかわいらしい大内人形にほれ込んだ。「平和の象徴だと感じた。きれいな顔を描くために、筆運びに工夫を重ねてきた」

 41歳の時、両親を相次いでがんで亡くした。入市被爆した自分も健康に不安を抱き、2年後に被爆者健康手帳を取得。70歳を過ぎ、胃と腸に相次いでがんが見つかった。

 被爆体験の証言を始めたのも、同じころだった。「惨状を見た自分が、きちんと語らないといけない」と思ったからだ。

 戦争を知らない世代に、目にしたもの、臭い、うめきをうまく伝えられず、もどかしい思いを抱くこともある。それでも「核兵器を絶対なくさなければならない。大勢の非戦闘員を死なせ、生き残った人にも大きな傷を残して苦しめた非人道性を訴え続ける」と誓う。(柳岡美緒)

    ◇

 70年前、米国が広島に投下した原爆は多くの人の命と暮らしを奪った。きのこ雲の下で、学徒動員先から帰郷する途中で、あるいは負傷者の救護で惨禍を体験し、その後の人生を山口で送った被爆者は今、何を思うのか。節目の夏を追った。

(2015年8月4日朝刊掲載)

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