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社説・コラム

『言』 安野と中国人強制連行 和解と友好のモデルに

◆「歴史事実を継承する会」事務局長・川原洋子さん

 終戦から70年、忘れてはならない歴史が戦時下の中国人強制連行である。日本国内の135事業所で4万人近くを働かせたと、外務省報告書に残る。太田川上流の安野発電所(広島県安芸太田町)の建設工事にも360人が連行されて29人が死亡した。川原洋子さん(65)は市民グループ「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の事務局長。その事実を掘り起こし、工事を請け負った西松建設への訴訟を起こした生存者と遺族を支えてきた。謝罪や補償が和解で実現し、発電所のわきに「中国人受難之碑」が完成してことしで5年になる。ともに現地を訪れ、日中和解のモデルとしての「安野」の意味を聞いた。(論説副主幹・岩崎誠、写真も)

 ―碑の前に立って思うことは。
 長い道のりでした。被害者・遺族と、加害企業である西松建設が共同で建立し、日本へ連行される途中に亡くなった3人も含めた360人全員の名前を碑に刻んだことに大きな意味があります。西松への裁判では広島高裁で勝訴し、最高裁は請求を退けましたが判決の付言で「被害の救済に向けた努力を」と促し、相手に和解を決断させました。中国の人たちの思いが届いた形ですし、今は会社側の誠意に敬意を表しています。

 ―安野についての調査を始めてことしで四半世紀ですね。
 強制連行された中国人が蜂起した秋田県の「花岡事件」の学習会に参加したのがきっかけでした。広島にも現場があると知って調査を始めたのですが、地元に聞きに行っても何も分からない。もう駄目かなと思っていたら安野から帰国した生存者の1人が中国の河北大の研究者に手記を寄せ、それを入手して状況が変わったんです。1992年に訪中し、何人もの被害者から聞き取りできました。

    ◇

 ―被爆した人が生きていることも、そこで分かったんですね。
 徐立伝さんに会ったのは衝撃でした。安野で起きた事件で捕まり広島刑務所で被爆した11人の1人。別の5人が取り調べ中に被爆死した記録はありますが、生存者がいたとは夢にも思いませんでした。本人は歯肉がんで余命3カ月とされ、渡日治療が間に合わなかったのは今も残念です。河北大の皆さんの力を借りて残る被爆者を捜したいと思いましたが、全体から調べた方が早いということで360人を捜すことにしたんです。

 ―それから西松へ補償を求める活動にもつながった、と。
 有志で「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」を結成し、まずは被爆の問題に取り組もうとしました。ですが新たに被爆者と分かった呂学文さんと孟昭恩さんが93年夏に広島入りし、「公式謝罪」「追悼碑と記念館建設」「賠償」という3項目の要求を西松側に出した頃から、方向が変わったんです。被爆も強制連行が最大の原因であり、そこを問わなければならない、と。

 ―支援の輪も広がりましたね。
 新聞で報じられたこともあり、地元の関係者が写真や証言を寄せてくれました。父親が安野の収容所の監視員だった人が、私たちの集会で「あんな悲惨な出来事が埋もれていいとは思わない」と名乗り出たのは忘れられません。それ以来、一緒に活動しています。

 ―過酷な実態を解き明かす中で見えてきた本質とは。
 戦争遂行のため、ここまでやるかということ。戦時経済を回すのに発電所を必要とし、造る人がいないため中国から連れてきたんです。日本軍と戦闘した捕虜だったり、道を歩いていて捕まったり。家の中で母親とご飯を食べていて日本兵に連行された人も…。中国ではまず収容所に入れ、出る時は「労工」という扱いにして企業と契約する形に偽装されました。家族からすれば突然姿を消したことになり、私たちの調査を受けて安野に連行されて死んだことを初めて知った遺族もいるほどです。

    ◇

 ―終戦後、帰国して大変な目に遭った人も多いようですね。
 その通りです。連行された間に家族が離散したり、生活の基盤を失った人も多かった。特に安野の事故で失明した宋継堯さんという人は本当に耐えがたい苦労をしたと聞いています。さらに日本に行ったことでスパイとして疑われ、後に文化大革命でつるし上げられた人も少なくありません。

 ―その長い恨みが、和解で癒やされたんでしょうか。
 先ほどの3項目要求に沿った解決ができたと思います。西松が歴史的責任を認め、謝罪する。そして和解金として2億5千万円を支払いました。基金をつくって1人当たり70万円の補償金を支給し、この碑の建立や受難者・遺族を招く訪日活動も実現しました。

 ―安野にも招いたんですね。
 計6回で173人が訪れ、多くは碑に名前が刻まれたことで安心したようです。これで肉親の受難が歴史として伝えられる、と。和解を区切りに日中友好を築いていこう、という気持ちになっていく変化が目に見えるようでした。尖閣問題の影響で、訪日する数が半減した回もあります。しかし来た1人は「歴史は忘れることはできないが、恨みは忘れることはできる」と言ってくれました。

 ―歴史認識の問題を考える上でも重い言葉ですね。
 「安野」は戦争の悲劇を交流と友好に結び付けるシンボルかもしれません。私は歴史の問題は解決できると思います。ただ、その前提として事実をきちんと認めることが基礎になるんです。どの国にも負の歴史はあります。それを認めることは、恥じることでも国を辱めることでもありません。私たちも語り継ぎ、次の世代に伝える努力を続けたいと思います。

 ―中国人強制連行では、日本政府が補償を認めていません。
 民間だけでできるわけがなく、当然国策です。ただ私たちは国の責任を追及するに至りませんでした。いま三菱マテリアルによる和解の動きが伝えられています。安野をモデルに、さらに一歩進めているようです。先行する和解の経験を生かし、次の和解へ。そんなふうに企業との和解を積み重ねれば、日本政府の責任問題も視野に入るのではと期待しています。

かわはら・ようこ
 北九州市生まれ。会社員の傍ら指紋押なつ問題を考える市民運動などに参加し、92年に発足した「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の中心メンバーに。さらに「西松建設裁判を支援する会」事務局長として原告を支援し、和解成立後の10年にできた「歴史事実を継承する会」でも事務局長。日中双方で構成し、14年10月で主な事業を終えた「西松安野友好基金」の運営委員。広島市西区在住。

発電所建設で過酷な労働 2事件が被爆者生む

 中国電力の手で、今も稼働を続ける安野発電所。その建設工事で何があったのか。

 戦争中の労働力不足は中国人の「移入」で補え―。日本政府が閣議決定したのは1942年のことだ。西松組(現西松建設)も応じた1社である。軍都広島への電力供給を担うため、国策会社の日本発送電が新たに計画した水力発電所を建設するためだ。

 「労工狩り」とも呼ばれた強引な手段で集められ、山東省済南の収容所にいた297人と、別に青島で集めた63人が船に乗せられて44年8月に安野へ到着する。「中隊」に分かれて4カ所の収容所に入れられ、導水トンネル掘りなど過酷な労働を強いられた。食事は粗末で冬の寒さにもさらされる。病気やけがも続出し、脱走も繰り返された。

 中国人から被爆者が生まれたのも、こうした状況が生んだ二つの事件ゆえだ。

 一つは脱走した1人が警察の調べに中国で八路軍(共産党軍)にいたと供述し、他の事業所の中国人と連携した破壊工作が疑われた事件。まさに冤罪だろう。新潟、北海道に強制連行されていた別の2人も合わせて計3人が広島刑務所に収監中、被爆する。

 もう一つは収容所で日本側に協力していた中国人2人の殴打致死事件だ。食料分配の不満から起きたもので、逮捕された計16人のうち無関係とみられる人も多かった。広島に送られ、未決囚として刑務所にいた11人は助かったが、爆心地近くで取り調べ中の5人が全員死亡している。

 こうした実態は日中有志の粘り強い調査で少しずつ判明する。終戦後に外務省の命で作成された事業所ごとの報告書が現存し、個人名や死亡状況などが分かるのも大きかった。西松建設を相手取る被害者・遺族の訴訟が2009年に和解した後、全員を網羅した調査があらためて行われ、ほぼ全容の解明に至った。中国人強制連行をめぐる三菱マテリアルの謝罪や補償など包括和解の動きも、安野における問題解決が道筋を付けたものだといえる。

(2015年8月5日朝刊掲載)

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