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連載・特集

平和 受け継ぐ 被爆70年 8・6式典 都道府県遺族代表

 被爆から70年となる6日、広島市が平和記念公園(中区)で営む原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、41都道府県から被爆者遺族の代表者が参列する。最高齢は福岡県の89歳、最年少は秋田県の38歳で、平均年齢は71.1歳。長崎など6県は欠席する。父母やきょうだいが体験したあの日や戦後の苦しみ、託された平和への願いを聞いた。

中瀬秀二(55)=北海道

 父二郎、12年7月29日、85歳、肺炎
 農家だった父の元気な姿から、被爆の影響を感じることはなかった。海軍に所属していたというが、被爆した時の詳しい話は聞いていない。広島を訪れるのは2年ぶり。平和記念公園周辺にある小学校の資料館も巡り、被爆の実態をもっと知りたい。

白取弘(56)=青森

 父豊一、15年1月15日、87歳、胃がん
 父は志願して陸軍船舶特別幹部候補生となった。江田島から広島市に入り、救護に当たったらしい。多くを語らなかったが、県原爆被害者の会の会長を務め核兵器廃絶の運動をしていた。式典後、父が過ごした江田島を訪れ、足跡を確かめるつもりだ。

姉の無事を知り安心して逝った母。 在りし日を知る家族はもう私だけ

岡田健子(83)=宮城

 母吉野、45年9月9日、53歳、被爆死
 鶴見橋近くで勤労奉仕中に熱線を浴びた母。背中一面に大やけどを負いながら家族の安否を気に掛け、姉の無事を知ると「これで岡田家は大丈夫」と安心したそうだ。在りし日の母を知る家族はもう私だけ。動けるうちに母が眠る白島の墓に参りたい。

佐藤聖湖(38)=秋田

 祖父竹内一吉、45年8月6日、45歳、被爆死
 祖父は4歳だった母を病院に連れて行った後、被爆した。遺骨は見つからず、焼け焦げた弁当箱と写真だけが残る。祖父の声を聞きたかった。原爆さえなければ、と思う。最年少の遺族代表として、原爆の悲惨さを次世代に伝える責任感を胸に式典に臨む。

清水勇治(66)=山形

 父勇造、14年6月1日、90歳、心不全
 陸軍の通信兵だった父は比治山の兵舎で爆風を受け、ガラス片が背中に刺さった。その後も宮島で兵舎の建設をしていたという。戦後、故郷に戻って放射線の影響を気にし続ける姿に原爆の恐ろしさを感じた。式典に初めて参列し、父のゆかりの地を訪ねる。

田中修司(69)=福島

 母敏美、14年3月8日、96歳、総胆管結石
 母は出汐町の陸軍被服支廠(ししょう)で作業中に被爆。テーブルの下に隠れたが、ガラス片が全身に刺さったという。つらい体験はあまり語らなかった。私自身は福島第1原発事故の時、郡山市から埼玉県へ1カ月避難する体験をした。反核の思いを込めて参列する。

茂木貞夫(81)=茨城

 父嘉勝、68年12月17日、80歳、心不全
 刑務官をしていた父は、吉島町の広島刑務所の庁舎で被爆。体中にガラスが刺さり、けがだらけだった。私も通学途中に住吉橋近くで被爆し、死体の流れる本川を泳いで自宅に戻った。初めて孫を広島に連れて行く。若い人に被爆者の痛みを知ってほしいから。

高橋久子(82)=栃木

 父岩佐節造、45年8月6日、51歳、被爆死
 父は、紙屋町の芸備銀行本店で勤務中に被爆した。15日、兄が軽石のような父の遺骨と印鑑を持ち帰った。私も広島駅近くで被爆し、両手と左脚のやけどで3カ月寝たきりになった。遺族というだけでなく、あの日を体験した被爆者としての使命感を持って臨む。

田胡瑞恵(68)=群馬

 父庄四郎、14年10月23日、94歳、肺炎
 軍隊に所属していた父は皆実国民学校で被爆した。11月まで負傷者の世話や死者の火葬を担ったという。争いごとを嫌う穏やかな性格。戦後は「地獄のようだった」と当時を振り返り、自宅でよくお経を上げていた。広島で父の記憶をたどり、供養したい。

加良谷忠昭(70)=埼玉

 妻恵美子、14年2月23日、70歳、呼吸不全
 妻は被爆者の会で証言を続けていた。2歳の時に東観音町の自宅で被爆したが、母親に抱かれていて無事だったという。ただ、両親は亡くなり、2人の写真をずっと大切にしていた。妻の葬儀で、その写真を棺に納め「会えたらいいね」と声を掛けた。

上野博之(76)=千葉

 弟健二、11年10月30日、70歳、胃がん
 疎開先の中野村から広島駅まで電車で出掛けた父が行方不明になった。9日から数日間、母と2人の弟と手をつないで捜し歩いた。私自身、長く被爆から目をそらして生きてきたが、定年退職後に証言を始めた。いつの日か核廃絶の実現を墓前で報告したい。

家島昌志(73)=東京

 父忠明、69年3月12日、60歳、上顎がん
 広島逓信局に勤めていた父は、夜警当番明けで牛田町の自宅で仮眠していた。閃光(せんこう)に驚いて跳び起きた後、爆風で飛ばされたが無事だったという。私も自宅で被爆した。記憶はほとんどないが、二度と戦争があってはならないとの思いで式典に参列する。

川上博夫(84)=神奈川

 母静栄、83年9月10日、79歳、脳梗塞
 母は白島九軒町の自宅で裁縫をしている最中に被爆した。自宅の屋根が飛んだが、大きなけがはなく無事だった。私は友人と水遊びをするため川に行く途中だった。廃虚となった街の光景を今も覚えている。今回、自宅近くを訪れたいと思っている。

石山昭夫(74)=新潟

 父勇一郎、84年5月22日、77歳、食道がん
 広島市職員だった父。被爆したのは官舎があった段原日出町から職場に向かう途中だった。私と母も自宅で被爆したが、両親は原爆について話したがらなかった。広島へは父母の写真を持参する。70年の重みをかみしめながら原爆慰霊碑に祈りをささげる。

南和雄(67)=富山

 父孝、15年1月3日、87歳、心不全
 軍隊にいた父は、7日に福山市から入市被爆した。原爆が話題になるといつも嫌そうな顔をし、決して体験を話そうとしなかった。悲惨な光景を目にしたのだろう。ことし、原爆死没者名簿に名前を載せるので、初めて訪れる広島でしっかり供養したい。

松本弘(73)=石川

 母リキ、92年3月22日、86歳、肝臓がん
 母は似島の自宅から親戚や友人を捜すため入市被爆した。島に運ばれてきた多くの負傷者の介抱もし、求めに応じて水を飲ませると、息を引き取っていったという。恐ろしい記憶だからと家族以外には話そうとしなかった。原爆を絶対になくさないといけない。

笹原幸信(67)=福井

 父幸雄、14年5月29日、90歳、老衰
 父は軍隊にいて爆心地から1・7キロで被爆したが、物陰で直接熱風を浴びず、助かったという。私が小学生のころに、その体験を一度だけ話してくれた。悲惨すぎて思い出したくなかったのでは。原爆資料館を訪れ、父のあの日を追体験しようと思う。

愚かな戦争が繰り返されないように祈る。孫たちのためにも

遠山睦子(73)=山梨

 兄故選浩行、45年8月7日、12歳、被爆死
 兄は広島二中の1年生だった。中島新町で建物疎開の作業中に被爆して全身に大やけどを負い、母が一晩中看病したが、翌日に亡くなった。70年の節目に広島をぜひ訪れたかった。兄を悼み、愚かな戦争が繰り返されないよう祈りたい。4人の孫たちのためにも。

千国美津代(71)=長野

 母前座くにゑ、04年1月15日、88歳、肺炎
 母と私は爆心地から約1・5キロの大手町の自宅で被爆した。幼いころ、母から被爆地の光景について「目玉を手に乗せてぼうぜんと立つ人がいた」などと聞き、恐ろしかった。式典は3回目の参列。戦争は絶対にだめだという思いを込めて手を合わせる。

内村明子(81)=岐阜

 夫幹、14年7月15日、80歳、ぼうこうがん
 夫は疎開先の君田村から実家の広島市江波町に帰り、8月13日に入市被爆した。私たち夫婦は放射線の影響を心配し3年間、子どもをつくるかどうか悩み苦しんだ。式典には初めて参列する。核兵器廃絶へ活動を続けてきた夫の遺志を継いでいく。

伊藤陽子(73)=静岡

 母岡崎サトミ、07年11月24日、91歳、胃がん
 母はあの日、3歳の私をおぶって、呉市から父がいた紙屋町に歩いて向かったという。その体験を決して語ろうとせず、遺品を整理している時に見つかった便箋1枚のメモで初めて知った。母が見た悲惨な光景を思うと、今でも胸が締め付けられる。

小西正子(85)=愛知

 母田中ハルノ、45年8月6日、49歳、被爆死
 鳥屋町(現大手町)の自宅付近にいた母は被爆後、行方不明になった。毎日捜したが見つからず45年9月に愛知県の親戚宅に引っ越した。昨年、広島市に問い合わせ、同町で遺体が見つかっていたことが分かった。原爆供養塔に眠っているのだろう。母に会いたい。

父が撮った焼け野原の写真。反核の思いを語り継ぎたい

加藤清江(72)=三重

 父大橋明、77年7月6日、77歳、肝臓がん
 原爆投下翌日、私は父母と共に東京から尾長町の自宅に帰り被爆した。父が撮影した広島駅前の焼け野原の写真や、自宅で被爆した兄や姉から聞いた話を基に6年前から証言活動をしている。戦争や核兵器は絶対にいけないと言い続けた父の思いを語り継ぎたい。

森田敏己(62)=滋賀

 父秀吉、11年1月11日、93歳、胃がん
 軍人で広島の部隊に所属していた父はあの時、市外の宿舎にいた。爆風で窓ガラスは割れ、空にきのこ雲を見た。市内に入ると、建物はつぶれ、川は死体であふれ、まさに地獄絵図だった、と。晩年、8月が近づくと意を決した表情で、家族に体験を語っていた。

福井伸子(75)=京都

 夫賢一、14年12月26日、74歳、胃がん
 夫は段原の自宅で被爆。一緒に遊んでいた2歳の弟が倒れてきた柱で大けがを負い、十分な治療を受けられないまま約1カ月後に亡くなった話をしていた。悔しそうに。その夫も逝って初めて迎える8月6日。夫と原爆犠牲者の冥福を祈ろうと思う。

松井芳子(73)=大阪

 母三浦ツル子、45年8月9日、24歳、死因不明
 母は、広島電鉄に勤めていた父に弁当を届けた帰りに被爆した。父が見つけた時は体中にやけどを負い、隣には幼い私がいた。間もなく、「水が欲しい」と言って亡くなったという。式典には母が写る唯一の写真を持って行き、健康に産んでくれた感謝を伝えたい。

井口睦子(73)=兵庫

 母福井ハツ、94年8月30日、90歳、膵臓(すいぞう)がん
 母と私は己斐町の自宅で被爆後、すぐに親戚を頼って京都に移住した。母はあの日の状況を語らず、被爆者健康手帳を作らなかったし、広島へ行くこともなかった。私も手帳を取得したのは8年前。式典後、当時の自宅付近を訪れ、思いをはせたい。

木全(きまた)満知子(64)=和歌山

 母晃子、13年5月31日、89歳、肺炎
 原爆が落とされた時、母は今の己斐本町にあった工場の地下にいて無事だった。ただ、その後に見た街の惨状の夢を晩年までよく見ていたようで「戦争は絶対にいけない」と話していた。母を広島で供養したい。東区に住む叔父の被爆体験も聞いてみる。

久保田和代(62)=島根

 父宏、08年8月25日、84歳、老衰
 父は浜田市にあった陸軍の部隊に所属していた。8月7日に広島市へ入って被爆したが、見聞きした様子や戦争については全く語らなかった。当時の話をもっと聞きたかった。式典への参加は初めて。戦争や核兵器は絶対にだめだという思いで平和を祈りたい。

高杉典子(64)=岡山

 父正、14年12月18日、84歳、肺炎
 徴兵されていた父は、基町の建物内で被爆したという。調理場の大理石の机の下に隠れ、奇跡的に外傷はなかった。ただ心の傷は大きかったようで、被爆体験については多くを語らなかった。式典では全国の遺族を代表して献花する。父も喜ぶと思う。

山本進(70)=広島

 父成義、12年11月27日、96歳、肺炎
 父は吉田町で学校の教員をしていた。原爆投下3、4日後に近所の人とともに入市し、20日間くらい遺体の搬出などをしたという。小学生のころからその体験を聞かされ、いかに悲惨な状況だったかを知った。式典では父をしのび、平和について考えたい。

平田定一(70)=山口

 母シエコ、01年9月24日、81歳、脳梗塞
 似島に住んでいた母は原爆投下の翌日、私と兄を連れて、吉島町の父方の祖父母を捜し歩いた。当時の体験を幼いころに1度聞いたが、その後は話してくれなかった。私は今、岩国市原爆被害者の会事務局長。核兵器廃絶の思いを後世に伝えていくつもりだ。

植村蓉子(85)=香川

 夫哲(さとる)、13年1月22日、84歳、脳梗塞
 夫は祇園町に住んでいた。原爆が落とされた日は、建物疎開の当番ではなかったが、町内会の仲間を捜しに入市被爆した。当時の状況を尋ねても「言葉にするものじゃない」と、思い出すのもつらそうだった。息子と一緒に広島で冥福を祈りたい。

母は脇腹に障子の破片が刺さったまま、泣きわめく私に乳を飲ませた

好永誠(70)=愛媛

 母ヨシミ、13年4月24日、94歳、心筋梗塞
 被爆したのは、南観音の自宅で、母が生後7カ月の私を寝かしつけていた時だったという。母は脇腹に障子の骨組みの破片が刺さったまま、泣きわめく私を落ち着かせようと乳を飲ませた。俳句が趣味で、原爆も詠んでいた。母への感謝の気持ちを胸に式典に臨む。

岡林和子(66)=高知

 父穂岐山鹿住(ほきやま・かずみ)、12年3月3日、93歳、低体温症
 元宇品町で被爆した父は防空本部に所属していたという。私と妹の結婚を心配し、長く被爆体験を話さなかった。平成になって地元紙の取材を受け、戦争の惨禍を国は忘れないでほしいと語っていた。父がどんな思いで生きたかを考えながら式典に初参列する。

小川淳二(89)=福岡

 母ムメ、99年7月14日、102歳、老衰
 母は白島中町の自宅で被爆。私はその前の空襲警報で持ち場に出ていたので、翌日に本川近くの避難場所で再会できた時の喜びは忘れられない。地元の中学校などで被爆体験の証言活動を続けている。母と一緒に直面した惨状の記憶を、若い人に伝えたいから。

畑農征子(77)=熊本

 夫和昭、15年3月11日、82歳、肺炎
 中学1年だった夫は、幟町の自宅で両親と被爆。崩れた家からはい出し、3人で肩を組んで逃げたらしいが直接、体験を聞いたことはない。思い出すのがつらかったのだろう。夫の写真を持って参列し、苦労した分、安らかに眠って、と祈るつもりだ。

万田泰次(78)=大分

 父秀文、45年8月6日、46歳、被爆死
 両親は千田町の自宅を出て被爆死したとされるが、全てなくなったので分からない。生きているのでは、と今も面影を探す。私と一緒に近所で被爆した姉、2人の弟も間もなく死んだ。70年は被爆1世の最後の大きな節目。記憶を風化させないことが残る仕事だ。

橋口みつこ(60)=宮崎

 父池田松男、13年10月10日、91歳、脳梗塞
 陸軍にいた父は、静岡から小倉へ向かう途中、あの日に広島市内に入った。私が40歳を過ぎるまで一度も話さなかった。よほどつらい体験だったのだろう。当時の様子を尋ねても「地獄だった」と言うだけ。深く語れなかった父の思いを胸に参列する。

国分一彦(77)=鹿児島

 母節子、05年3月4日、86歳、肺炎
 三篠本町に暮らしていた一家5人全員が被爆し、5日ほどかけて両親の故郷の鹿児島県に逃れた。母はそれきり広島を訪れないまま逝った。当時の苦労話は語らずじまいだったが、伝えておきたい思いもあったはずだ。遠く鹿児島でも記憶の継承に取り組んでいく。

宮里瑠美子(64)=沖縄

 母国吉スミ子、14年2月21日、82歳、腎不全
 祖母と母は働くために沖縄から広島へ出たという。原爆投下後に降った「黒い雨」に打たれたそうだが、母は被爆体験をあまり語ろうとしなかった。式典には初めて参加する。戦争経験者は減っていくので、私たちが次世代に語り継ぐのが大切だと思う。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひとこと。敬称略。

(2015年8月5日朝刊掲載)

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