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父の被爆死 語り継ぐ夏 広島の渡部さん 自宅整理中に遺品 孫「米留学で話す」

 広島市南区宇品神田の渡部佐恵子さん(80)が今夏、あの日の記憶を孫たちに語り始めた。被爆死した父の栄さん=当時(60)=からの便りと遺影が自宅で見つかったのがきっかけだ。「多くの犠牲の上にある平和の重みを若い人には忘れないでほしい」。被爆70年に、一家族の新たな継承の営みが始まった。(田中美千子)

 渡部さんは4月、古いたんすを整理中、引き出しの底に父の遺品を見つけた。1945年春、今の三次市に疎開していた渡部さんに宛てた手紙とはがき計5通。母タマキクさん(99年に102歳で死去)と共に納まる写真1枚もあった。渡部さんは「母は思い出すのがつらいと、父に関する物は何でも捨てた。私が隠したんだと思う」と記憶をたどる。

 45年、両親は下中町(現中区袋町)の広島中央電話局に勤めていた。「一人娘の私はそれはかわいがられて」。手元に置きたいと、夏前に疎開先から連れ戻された。あの日は父だけが職場へ。足を骨折していた渡部さんが母と宇品神田町(南区)の自宅に残り、あの閃光(せんこう)を見た。

 翌7日、母が職場の焼け跡で父の遺体と対面。愛用の懐中時計を持ち帰った。「母は正気を失ったように泣いた」。それでも8日は手押し車に渡部さんを乗せ、広島駅(同)そばに向かったという。父が生前、渡部さんのために接骨院を予約していたから。「母は『お父ちゃんの遺志だから』と譲らなかった。道中、焼けただれた馬を目にしたのも忘れられない」

 今、渡部さんは長男夫妻、孫娘3人の一家と同じ敷地に暮らす。母に続き、夫を4月にみとるまで介護生活が続き「体験を語り聞かせる余裕などなかった」。しかし、遺品を見た孫で安田女子大1年の奈美さん(18)は「原爆を身近な問題と感じた。広島の人間として知っておかないと」。高校1年、小学4年の妹たちとともに意を強くしたという。

 渡部さんが手紙1通を手元に残し、5月に残りの遺品を原爆資料館(中区)に収めた時も、孫たちが付き添った。「館内も見ていこうとせがまれた」と渡部さんは目を細める。来年2月から米ハワイへ留学する奈美さん。「過ちを繰り返さないために祖母の体験を向こうで話せたら」。そう考えている。

(2015年8月5日朝刊掲載)

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