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連載・特集

びんごの70年 福山空襲 <3> 攻撃予告 避難促すビラに従えず

 福山市人権平和資料館(丸之内)で開かれている、福山空襲に関する企画展。展示されている空襲予告ビラの前で、精華中3年高原のぞみさん(14)=同市金江町=は素朴な疑問を口にした。

 「今、このビラが空から落ちてきたら逃げたい。でも、当時は逃げたくても逃げられなかったのかな」

 A5判のビラには日本語でこう書かれている。「数日の内に裏面の都市の内全部若くは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します」。7月、世良チトセさん(80)=同市北本庄=が、1999年に69歳で亡くなった夫和之さんが保管していた1枚を同館に寄贈した。

上空から6万枚

 空襲8日前の45年7月31日夜。米軍は福山市の上空から、当時の人口とほぼ同数の約6万枚のビラをまいて避難を促した。爆撃対象として福山、水戸、長野、大津など12都市が記されていた。

 和之さんは当時15歳。ビラを見た後も多くの市民と同様に逃げることなく、自宅があった福山市中心部の寺町で空襲に遭った。戦後発刊された体験集に「記載された都市が次々と爆撃を受け、刻々と福山に近づいて来るという現実に、どうにも逃れようのない不安感が、折々に心をよぎる」と直前の心境をつづっている。

「流言に惑うな」

 「国土防衛は協力一致、隣組の力で持ち場を固めよ」「流言に惑うな、当局の指示を信頼して行動せよ」―。当時、こんな生活訓が国民に示されていた。米軍のビラは直ちに憲兵が回収するなどし、かん口令が敷かれたという。

 当時8歳だった田口清登さん(78)=同市引野町=もビラ投下の翌日、引野国民学校から帰宅中に田のあぜ付近で2、3枚を見つけた。すぐ学校に戻り、先生に渡したという。「空襲も怖かったが、憲兵にとがめられるのも恐ろしく、とにかく早く手放したかった」。70年前の記憶をたぐる。

 同館によると、米軍は45年7月下旬~8月上旬、全国32都市に計約198万枚の空襲予告ビラをまき、うち16都市を爆撃した。日本国民を厭戦(えんせん)気分にさせる作戦だったとされるが、警告に従う人は少なかったという。「情報も国民の精神も統制され、それが犠牲や悲劇につながった。過去の過ちから学び、教訓にしないといけない」。同館の田中淳雄副館長は強調する。(小林可奈)

(2015年8月5日朝刊掲載)

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