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社説・コラム

天風録 「左手のピアニスト」

 右手がもつれる。ピアノを弾く指に、違和感を覚えたのは17歳の時という。練習不足のせいと思いレッスンを重ねた。でも徐々に、症状は重くなる。9年前、広島市の瀬川泰代さんは難病のジストニアと診断された▲回復は難しいとの宣告に泣き崩れた。ピアニストになる夢も諦めかけた。光が差したのは左手だけで演奏できる曲に出合ってから。同じ病がある演奏家に師事した後、オーストリアに留学中だ。先月はスペインの国際コンクールで片手だけで3位に▲その欧州では「片手の音楽」が珍しくない。戦争と深い関係がある。2度の大戦で腕を失ったピアニストのため、著名な作曲家たちが譜面を書いてきた。その系譜を引き継ぐ曲の数は現在、700以上にも上るらしい▲瀬川さんもよく演奏する。被爆70年の広島平和文化祭でも同じ病気に苦しんだロシアのピアニストの曲を弾き、大きな拍手を浴びた。失ったからこそ得た、静かで豊かな調べなのだろう▲一音一音に平和への思いを―。そう語る瀬川さんの祖父母は被爆者。あす原爆の日、平和記念公園のアオギリの前で被爆ピアノに向かう。未来への希望を感じさせる美しい旋律と不戦の誓いが響き合う。

(2015年8月5日朝刊掲載)

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