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連載・特集

たどる戦争の記憶 <中> 被爆者救護 全身にやけど 献身的に 三次

 70年前、三次市十日市中にあった三次高等女学校(現三次高)に通っていた林勝江さん(86)=三次町=は、そばの十日市国民学校(現十日市小)で被爆者の救護に当たった。この夏、卒業以来初めて同級生と現地を訪ね、思い出したくない過去に向き合った。

 救護といっても、赤チンも包帯もろくにない。「水がほしい」と言われても、与えたら死んでしまうとくぎを刺されていた。傷に湧くうじ虫をはしでつまんで除くばかり。「気分が悪くなり、何度ももどしていた」。16歳の夏の記憶だ。

学校や寺に収容

 1945年8月6日、広島への原爆投下は、県北にも混乱をもたらした。芸備線で負傷者が押し寄せ、陸軍病院の分院が疎開していた旧制三次中(現三次高、三次市)や向原国民学校(現向原小、安芸高田市)、庄原国民学校(現庄原小、庄原市)をはじめ沿線の学校や寺、旅館などが救護所となった。

 備後十日市駅(現三次駅)には6日夕から、千人以上が客車や貨車に乗せられて続々と到着。国防婦人会の女性たちが大八車や戸板で各所へ運んだ。

3分の1が死亡

 駅から500メートルほどの十日市国民学校では約300人を収容。一糸まとわず顔や手足が焼けただれ、体中にガラス片の刺さった傷病者たちが、講堂や教室、廊下に並んだ。頭を抱えて重湯を飲ませたり、包帯を川で洗ったり…。教員の指示で手伝った当時の女学生は口々に証言する。

 献身的な救護にもかかわらず、3分の1の100人が死亡。引き取り手のない亡きがらは、近くの河原や山で焼かれたとされる。

 橋本美代子さん(87)=三次市作木町=は、命を取り留めた一人だ。当時働いていた旧陸軍被服支廠(ししょう)(広島市南区)から三次へ帰る途中、広島駅前で被爆。全身にやけどを負いながら、山へ山へと向かう人波について戸坂駅(東区)まで約7キロを歩き、住民の助けで列車に乗せられた。

 備後十日市駅近くの学校で家族と再会。頭がもうろうとする中、「地区の人も一緒に大八車で迎えに来てくれたのを覚えている」。

 あれから70年。右手などのケロイドを気にして「人前に出るのをずっと避けてきた」と橋本さん。「こんな思い、もう誰にもしてほしくない」。静かな山里で、強く願う。(松本大典)

(2015年8月5日朝刊掲載)

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