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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <2> 笠岡市原爆被爆者会会長・筒井守さん=笠岡市

高齢化に危機感 証言集で継承

 被爆者の多くが高齢になった。以前に比べ被爆体験を語り、核兵器廃絶を求める活動が困難になってきている。

 笠岡市原爆被爆者会は1960年に発足した。2000年、会長に就任。被爆者健診や健康管理手当の申請サポート、原爆写真展開催などに取り組んだ。就任時に119人いた会員は15年たち、61人に半減した。全国では、被爆者会解散の動きもある。

 被爆70年の節目を迎えたが、10年前と違って記念式典は企画できなかった。残念だ。しかし、元気な方もいて語り部として市民に原爆の恐ろしさを訴えてくれている。会として07年に、62人の証言をまとめた「被爆者生存誌」を作った。話のできる被爆者は少なくなったが、証言集を活用した活動で会をアピールしたい。

 爆心地から3・3キロの広島市宇品にあった広島逓信講習所高等部電信科(当時)の教室内で被爆。窓ガラスの破片が背中に突き刺さり、シャツは血で染まった。同科を卒業後、岡山郵便局電信課に就職。改組後の電電公社を84年に退職した。笠岡市に戻って携帯電話販売店などを営んだ。

 原爆投下後の夕方、負傷者を送った駅の構内で体や目玉が膨れあがった男性の遺体を見た。9日は、広島駅の大時計が「8時15分」を指したままだったのを覚えている。電電公社勤務の頃は仕事に集中し、体験を話す余裕はなかった。退職して健康に不安を感じるようになった。亡くなった方々の無念を伝えたい、広島で見た惨劇を繰り返してはいけないとの思いが強い。被爆体験の証言が大切だと感じる。

 被爆者は将来いなくなる。原爆の恐ろしさや核兵器廃絶を訴える声をどう未来につなげていくか、考えなければならない。核兵器は人類の負の産物。無関心でいられないはずだ。ことしも8月6日、笠岡市で原爆死没者鎮魂式と平和祈念のつどいを開く。たくさんの若者が参加し、平和のありがたさを考える時間にしてほしい。(谷本和久)

(2015年8月5日朝刊掲載)

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