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社説・コラム

社説 ヒロシマ70年 核の非人道性 問い続ける

 「反対目標は物としての核兵器だけではなく、人の組織としての核権力である」。広島のジャーナリスト金井利博は晩年の著書「核権力―ヒロシマの告発」(1970年)に書き残している。

 原水爆禁止運動とは核物質を核権力たらしめる人の営みを廃絶する運動だという。この夏、60年代の「原水爆被災白書運動」をリードした金井の仕事をたどる広島大文書館の企画展に学び、核権力という言葉の意味をかみしめている。

 核戦力といった場合、軍事力を指し、核権力といった場合、軍事利用であれ「平和利用」であれ、核エネルギーを支配する強大なパワーを指す。むろん、存在自体が民主主義とは相いれない。

 広島への原爆投下から70年を迎えるきょう、あらためて思う。それが人のなせる業ならば、なぜ人によって無力化することがいまだにできないのか。

冷戦の思考回路

 冷戦時代が終わって久しいが、核戦争の危機は去っていない。ピーク時から大幅に減少したとはいえ、世界には1万6千発の核弾頭が存在する。しかも核保有国は核拡散防止条約(NPT)が定める核軍縮義務をよそに、軒並み核戦力の近代化へ向かっているのが現実だ。

 ことしは耳を疑うような大国指導者の発言も聞いた。昨年2月のウクライナ政変の際、核兵器使用を準備していたと、ロシアのプーチン大統領が平然と口にした。冷戦時代の思考回路丸出しとしかいいようがない。

 だが核保有国よ、おごるなかれ。その核権力を真っ向から問いただす、国際世論の潮目の変化を直視すべきだ。

 一つは非人道性の視点から核兵器の廃絶を求める動きである。今春のNPT再検討会議は決裂したものの、核兵器の非合法化を求めてオーストリアが提案した「人道の誓約」に100を超す国が賛同している。核兵器は国際法で明確に禁止されていない唯一の大量破壊兵器なのだ。

 もう一つは核被害国が立ち上がったことである。中部太平洋の小国マーシャル諸島は昨年4月、核保有国9カ国の核軍縮義務違反を国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。度重なる米国の水爆実験のために、半世紀を過ぎた今も古里に帰れない元住民たちの訴えは悲痛だ。

原爆ドーム見よ

 思えば平岡敬・広島市長と伊藤一長・長崎市長(いずれも当時)の陳述を受け、核兵器の威嚇・使用は一般的に国際法に照らして違法だとするICJの勧告的意見が出て、来年で20年になる。その流れをさらに加速させなければならない。

 核兵器はなぜ非人道的なのか。広島県物産陳列館として開館して100年になる原爆ドームを、世界の人々は見ればいい。あまたの市民の住む都市が警告もなく核攻撃された動かぬ証拠である。

 核兵器は長い年月にわたって被害者に肉体的、精神的な苦痛を残す。さらに核保有国を含む世界各地のウラン鉱山や核実験場、核施設の周辺では深刻な環境汚染をもたらし、広島・長崎以外のヒバクシャも世代を超えて苦しめている。

 その非人道性を身をもって体験した被爆国よ、役目を怠ることなかれ。日本は核保有国と非核保有国の「橋渡し」にとどまるのではなく、より強いリーダーシップを発揮すべきときではないか。

 現実は心もとない。被爆国の政府は核兵器禁止条約に後ろ向きであり、「人道の誓約」にも賛同していない。核兵器をなくそうと口にする一方で、米国の核抑止力を認めるから矛盾を来す。

 広島市の松井一実市長はきょうの平和宣言で「核兵器禁止条約を含む、法的枠組みの議論を始めなければならない」と呼び掛ける。平和記念式典に出席する安倍晋三首相やローズ・ガテマラー米国務次官らは、真剣に受け止めてほしい。

9条揺らぐ危機

 被爆地にとって、この問題も見過ごせない。日本が原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量にためこんでいることだ。長崎原爆7850発分に当たり、国民の意思とは裏腹に、「日本は核武装するのではないか」と疑念を招いて核拡散を助長しかねない。

 多くの憲法学者や内閣法制局の長官経験者が「違憲」と指摘する安全保障関連法案もそうだ。本来なら北朝鮮を含めた北東アジア全体の非核地帯化へ、外交政策を転換させるべきだろう。にもかかわらず安倍首相は4月に米議会で演説した折には専ら日米同盟の強化をうたい、この夏までの法案成立を口約束するほど事を急いでいる。どこよりも平和を希求する被爆地としては到底納得できない。

 全国の被爆者に核兵器の廃絶や日本の安全保障をめぐる現状について尋ねた共同通信のアンケートでは、憲法9条改正に7割近くが反対の意思を示した。禁じてきたはずの集団的自衛権行使の容認を憲法解釈の変更で押し通そうとする安保法案は、9条の空洞化につながりかねない。被爆者と被爆地には、毅然(きぜん)ともの申す権利と責任があろう。

 「平和の運動が広島からおこるのは当然すぎることだ」。作家原民喜は死の前年の1950年、こんなスピーチをのこす。全集には未収録だったが、この夏、文芸誌で読めるようになった。

 民喜は「パツト剝ギトツテシマツタ アトノセカイ」と、自らもさまよった広島の原子野を表現した。この世界のどこかで、再現されないとは言い切れない。身をもって体験した人がたとえいなくなっても、記憶をつないでいくためのさまざまなすべを見つけ出す。それもまた核権力と対峙(たいじ)することである。

(2015年8月6日朝刊掲載)

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