×

ニュース

体のガラス片「私の分身」 被爆10年後摘出の広島・新宅さん 資料館に寄贈 「恐ろしさ知って」

 被爆10年後に右頬から取り除き保管してきたガラス片を、新宅(旧姓小口)節(みさお)さん(84)=広島市西区天満町=が5日、原爆資料館へ寄贈した。苦難を強いられた半生を手記にも表した。原爆の恐ろしさをもっと知ってほしいと願い、「私の分身」というガラス片を託した。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 1945年8月6日、爆心地から約1・4キロの安田高女で木造校舎の下敷きとなった。3年生だった。「ああこのまま死ぬんだと思い、『ナンマンダブツ』と言っても声が出ない、心で思うだけだった」。脳裏から消えない直後の光景をそうつづっている。

 助け出された節さんは、両親がいた石内村(現佐伯区)にたどり着いたが血便が続き、ガラス片が体中から何日も出たという。

 学校は現安芸区で授業を再開したが、通うのは体力的につらく卒業は諦めざるを得なかった。安田高女(現安田女子中高)の生徒は、建物疎開作業に動員された1年生をはじめ315人が犠牲となった。

 被爆の翌年には父親が死去し、18歳で結婚した。しかし、夫が営む薬局の手伝いも家事も思うようにできなかった。授かった1男1女をあやすと激痛にも襲われた。腕や肩にガラス片が残っていた。

 顔の傷口からもガラス片がのぞいた55年、市民病院で胸骨を削り刺さった3片を除去。最大約1センチの長さがあった。ガーゼに包み残した。自らの「分身のように思えた」からだ。

 原爆体験はほとんど語ってこなかったが、8月6日は、平和記念公園の原爆慰霊碑と原爆供養塔に必ず参り花を手向け続けた。

 70歳を過ぎてからは白内障の手術を重ね、外出時はサングラスが欠かせない。原爆に翻弄(ほんろう)される半生にとどまらず、「犠牲者のうえに生かされている」気持ちも伝え残したいと手記を書いた。

 「もう誰にもこんな体験をしてほしくない」。年を重ねるほど募る思いに突き動かされ、「分身」のガラス片を手放すことを決めたのだ。

(2015年8月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ