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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 対談 <下> 平和への願い伝えるアート発信

黒田征太郎さん=命の危うさ 実感する癖を/安彦恵里香さん=「みんなが考える場」つくる

 きのこ雲をモチーフにした絵や音楽家とのライブで核兵器廃絶を訴える画家の黒田征太郎さん(76)と、若手アーティストたちと平和活動を進める安彦恵里香さん(36)。生まれも育ちも広島ではない2人だが、絵本などを通してともに平和への願いを広く発信してきた。70年前の「あの日」を胸に刻み、次代へどうつないでいくか。それぞれが取り組むアート表現とその可能性について語ってもらった。(文・森田裕美、林淳一郎、写真・浜岡学)

●被爆地に向き合い、活動に乗り出したいきさつ

 黒田 僕は戦後長い間、「広島」という言葉が嫌だった。子どもの頃に見聞きした、二つの広島の死が思い出されてね…。

 第2次大戦が始まった年に生まれて、「大きくなったら何になりたいか」と聞かれると「陸軍大将」とか言っていた。昭和20(1945)年の6月、神戸大空襲の余波で、当時住んでいた西宮(兵庫県)にも爆弾が落ちた。その後、仲の良かった同級生が広島に疎開して新型爆弾で死んだ、と風の便りに聞いて。広島との最初の出合いだった。

 僕は、滋賀県に疎開して敗戦を迎えた。8月20日ごろだったかな。駅前で人が死んでるっていうんで見に行ったの。女の人で、着てるもんはボロボロ。広島方面から来たらしい、新型爆弾だと聞いた。広島って怖い。それが僕のイメージだった。

 安彦 私と広島の関わりは、非政府組織(NGO)ピースボートの広島事務所にスタッフとして赴任したのが最初。ところが事務所が閉鎖されて。いったん事務局のある東京に出たんだけど、スタッフを辞めて、友達が一番多い広島に戻った。スティーブ(広島平和文化センター元理事長のスティーブン・リーパーさん)と出会って、平和活動に携わるようになって。

 黒田 出会いは大事だよ。僕は、作家の野坂昭如さんと知り合わなかったら違う生き方をしていたと思う。野坂さんは神戸の大空襲で親を失い、妹を自分の手の中で亡くした。だから戦争に対する恐怖感はすごい。朝鮮戦争(50~53年)が始まると、「原爆が落とされるんじゃないか」と思って逃げだしたそう。「きのこ雲が追い掛けてくるようだった」って。

 そのイメージがビジュアルとして僕に残って、20年ほど前から、きのこ雲を描き始めた。今も続けて、もう7千~8千枚になる。

 安彦 広島で2009年に始めたのが、「Yes!キャンペーン」という活動でした。(2020年までの核兵器廃絶を目指して平和市長会議=現平和首長会議=が具体的な道筋を示した)「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を分かりやすい絵本にして広めようと、スティーブたちと取り組んだんです。

 黒田 その絵本の絵を描いたのは僕だよ。

 安彦 実は私、そのキャンペーン実行委員会の事務局長で。絵本を売るキャラバンのコーディネートをしたんですよ。

 黒田 どこかで人はつながってるね。でも、核兵器とか戦争の問題とか政治とかに関係なく暮らしている人っていっぱいいる。今日食わなあかんねんという人に、分かってもらうのはなかなか難しい。

 安彦 数年前に核兵器廃絶の絵本を作ろうと、若手アーティストに呼び掛けて、核兵器と自分というテーマで絵を公募した。それまで核兵器のことなんてあまり考えなかったと思うんだけど、みんなものすごく考えるんです。自分が表現しないといけないから。見ていなかったものを可視化しなくちゃいけないっていうか、描くために学ばなくてはならない。この流れがとても大事だと思った。そういう意味で、アートというか表現には、すごい可能性があると思う。

●表現に託す思い

 黒田 戦後50年が近づいた頃、僕は移民として渡米した。米国に憧れて大きくなったから。ところが、ニューヨークにいると嫌でも日本が見えてきた。

 安彦 どんなふうに見えたんですか。

 黒田 50年たったんだから戦争の記憶は忘れましょうみたいに。でも、その頃よく訪れたドイツの人は、いい意味で戦争を忘れていない。街じゅうに戦跡を残しているし、ポーランドのアウシュビッツに行くと、ドイツの少年たちが清掃奉仕をしていた。日本の若者が8月15日にソウルへ行くだろうか。そういう視座のない日本で育った子どもってどうなるのかな。

 安彦 平和とか核兵器をなくそうとか、そういう活動をしていると、何でそんなことができるのって聞かれる。ないのが普通でしょって言うんです。ない方がいいじゃんって。

 黒田 ニューヨークにいる時、ミュージシャンたちと「PIKADON PROJECT(ピカドンプロジェクト)」を始めたの。きのこ雲の絵を米国人に見せて、どう思うって聞いたら「見たくない」と言う。でも、きのこ雲を逆さにするとフラスコの形に見える。そこに命を育む水を張って、種から伸びる芽を描いた。その隣に、きのこ雲を描いて「ノー」、フラスコの方に「イエス」の言葉を添えて。これなら米国人も乗ってきてくれた。

 僕は、使命感とか説教とかじゃなくて面白く伝えていきたい。まじめになり過ぎずに、どの隙間から入っていくか。そういうのって大事だよ。

●浮かぶ現代の姿

 黒田 今、戦時中と同じようになってきているように感じる。絵描きも、きのこ雲なんて描かない。主張より、食っていかないといけないから。誰かに戦争賛歌の絵を描けと言われたら、どうなるか。やばいかもね。だから、こっちもしたたかにやっていくしかないなって思う。

 安彦 戦争をしたい側はお金も力もすごくあるから「戦争広告」をどんどん作る。日本も戦時中はそうだったっていいますね。

 黒田 戦争広告っていい表現だね。ある人たちにとって戦争ほど効率のいい商売はないから。もうかんねん。今もそうよ。だから気を付けんと。知らんうちに戦争加担者になる。

 安彦 東日本大震災をきっかけに、原発輸出に反対する映像とかを制作している「NOddiN(ノディン)」っていうクリエーター集団がいるんだけど、キャンペーンを広げにくいんですって。何だか、見えない力に支配をされている感じですよね。

●記憶をつなぐには

 黒田 70年たって戦争や被爆を体験した人はだんだんおられなくなる。確かにそうでしょう。だけど今も被爆の影響がある人はいるし、実際に体験された方は「忘れない」と思ってるんじゃないんですか。広島で2代3代と家庭の中だけで語り継がれている話もあるでしょう。

 原爆が、ヒロシマが、70年間で払拭(ふっしょく)できるはずがないっていう気持ちを若い人たちが持つことが大切なんじゃないかな。71年目も来る、と言いたい。特別な難しい問題として「忘れない」という継承の仕方もあるけど、ご飯を食べたり朝起きて「おはよう」と言ったりするのと同じ感覚で、人間の命の危うさを実感するみたいな癖を付けないかんと思う。だって先は長いもん。

 安彦 私はとにかくみんなが考える場をつくりたい。ことしで3年目になる、原爆の投下目標にされた相生橋(広島市中区)で空を10分間見上げるイベントもそう。今のみんなに足りなくなっている「想像する」とか「考える」ことの助けになる大切な時間。苦しくなっちゃう人もいるんだけど、ずっと続けていきたい。「考える場コーディネーター」として。

 黒田 広島は類いまれな場所。おこがましいことは言えないけど、呼んでもらったり自発的に来たりしていつも考えるのは、ここで自分に何ができるか。だから、広島の人たちもヒロシマを自分たちだけの問題だと思わないでほしい。次の世代がどうつないでいくかでしょう。何を言われても引かないぞ、分かってもらおうなんて思っていないくらいの気概でね。

くろだ・せいたろう
 1939年大阪市生まれ。69年、長友啓典とデザイン事務所、K2設立。映画、テレビ出演のほか、ポスターや書籍、壁画制作など幅広く活動。92年から18年間、米ニューヨークで暮らし、2011年の米中枢同時テロも体験した。野坂昭如「戦争童話集」の映像化、命の尊さをテーマにした絵本など著書多数。広島・長崎の被爆体験を継承し行動する「PIKADON PROJECT」発起人の一人。北九州市在住。

あびこ・えりか
 1978年茨城県つくばみらい市生まれ。会社員、非政府組織(NGO)のピースボート職員を経て、NPO法人ひろしまジン大学コーディネーター、アートを通じて核問題を考えるアーティスト集団Project Now!代表、ITを活用して地域課題の解決を目指すCode for Hiroshima代表などとして活動する。広島市中区在住。

(2015年8月6日朝刊掲載)

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