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連載・特集

『生きて』 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <14> ヒロシマとフクシマ

被爆体験 被災地で語る

  2011年3月11日、東日本大震災が発生。4カ月後、福島県矢吹町の小学校で講演した
 山間部の学校で、津波被害はないけど、家なんかが壊れとるのは随分あった。学校の運動場も除染作業で土が山盛りになっとって、外では遊べないと聞いた。

 僕は、絵本「絵で読む 広島の原爆」を見せながら、広島ではどういうことが起こったかを話してね。広島の人たちは、戦後70年、草木も生えんといわれながら、その中で生き延びて、100万都市になっとる。皆さんも、希望を絶対に失ってはいけないという話はしたな。それと、あの日起きたことだけは、絶対に何かに書き留めておこうと。で、それをやっぱり自分の子どもたちに話してあげなさい、と伝えたね。

  講演後、ある女子児童の発言に衝撃を受ける
 6年生の女の子じゃったと思うけど、「私たちは30歳までに死ぬと思ってました。那須先生は3歳で被爆して、70歳近くになってもまだ元気でいらっしゃるのを見て、すごく勇気が湧きました」と言うんよね。だいたい、小学6年生ぐらいの子どもが、自分が死ぬるかも分からんと、あんまり思わんもんじゃからねえ。友達同士で、そういう話をしよるのかと思って。あの時はショックじゃった。原発にしても、放射性物質というのは、身体だけを損なうんじゃなしに、心までむしばむんじゃなと。やっぱりそういうものを、日本で造るのはいけんと思ったね。

  14年3月、山口県の上関原発計画に反対する「上関原発を建てさせない山口県民連絡会」の共同代表に就いた
 それまで、表だって活動はしてなかった。そんな僕が重い腰をあげたのは、福島第1原発事故から3年がたって、だんだんみんなが忘れていっていることへの危機感があったから。あれだけ原発はこりごりじゃと言いよったのに、今では原発があればエネルギー供給が安定するとか、昔と変わらんことを言いだして。喉元過ぎればじゃないけど、それに対する腹立たしさもあった。

 僕は物書き。メッセージは作品に込めるのが本来よね。今回は、僕の今までの人生の中では、どっちかというと異例なことじゃね。

(2015年8月6日朝刊掲載)

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