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病気進行…被爆証言できるうちに 廿日市の田中さん再び語る決意 地元市民センターが集い検討

 廿日市市地御前の田中(旧姓岡本)祐子(さちこ)さん(86)が被爆体験の証言活動を再開する。聞き手の関心の低さに落胆した約60年前から口を閉ざしていた。パーキンソン病で体の衰えが進み、「残された時間は少ない」と決断した。近くの地御前市民センターが今後、被爆体験を語る集いの開催を検討する。(長部剛)

 田中さんは1950年に砂谷小(現湯来南小)で教員となり、山あいの小中学校で被爆体験を語っていた。「料理の話を聞いても、写真を見ても本当の味は分からない。先生の原爆の話も同じ」。子どもの何げない一言が胸に刺さり、苦しみを押し殺して語る意味を見失った。

 田中さんは安田高等女学校専攻科だった16歳の時、爆心地から約2キロの広島市平野町(現中区)の自宅で被爆した。当日朝は体調不良で学徒動員先の飛行機のエンジン工場に行かず、窓際の机で国語の勉強をしていた。

 窓から強烈な光が差すと同時に家が崩れ、意識を失った。気付けば辞書を抱いてうずくまり建物の下敷きに。悲鳴に気付いた男性に引き上げられ、一命を取り留めた。庭で洗濯物を干していた母と、広島大の前身校の一つの広島文理科大に勤めていた父は、顔や上半身にやけどを負った。

 終戦を迎えた頃、親戚が暮らす玖島村(現廿日市市玖島)に一家3人で移り住む。間もなく田中さんの頭髪が抜け始め、10日ほどで全て抜け落ちた。

 女学校の友人が動員先の工場で火に包まれて叫ぶ夢を時折見ては、「工場労働を休んだおかげで命拾いした。友だちと一緒に死ぬべきだった」と自分を責め続けた。

 約10年前にパーキンソン病と診断され、最近は口を動かすにも以前より力が必要になった。「証言ができるうちに若い世代に体験を伝えることが、生き残った私の使命。原爆で亡くなった人たちの供養にもなるはず」。自らに言い聞かせるように話す。

(2015年8月6日朝刊掲載)

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