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[つなぐ~戦後70年 山口の被爆者] 広島に召集され被爆した・増原博さん=山口市 河原埋める人…地獄絵図 危機感胸に語り部指南

 「おびただしい数のフラッシュを浴びたような、紫がかった白い光に包まれた」

 70年前の8月6日、広島市の朝の空は晴れ渡っていた。仲間の兵士約10人と広島市白島北町(現広島市中区)の旧陸軍工兵隊の兵舎にいた時だ。訓練の準備をするよう知らせるラッパ音が響き、銃を手に取って急いで外に出ようとした瞬間のことだった。

爆心地から2キロ

 今の出光興産徳山事業所(周南市)にあった第三海軍燃料廠(しょう)で働いていた時、召集された。当時19歳。家族とは二度と会えないと覚悟を決め、広島に着任したのが8月1日。爆心地から約2キロで「あの日」を迎えた。

 原爆のさく裂による爆風で吹き飛ばされて、壁か何かに体を打ち付け、うずくまった。気が付くと、木造2階建ての兵舎は半壊していた。幸いにも、けがは足の捻挫だけだった。前庭に出ると上半身裸で体操中だった兵士たちが血を流して倒れていた。「30秒早く外に出ていたら、同じ目に遭っていた」

 待避命令を受け、京橋川に架かる工兵橋を渡って山手の防空壕(ごう)に向かった。「兵隊さん、助けてくれ」。声のした河原は、やけどを負った人で埋め尽くされていた。「地獄絵図だった。助ける余裕はなかった」と振り返る。

 しばらくすると、雨が降りだした。壕の中から見た「黒い雨」は一時、土砂降りになり、1~2時間続いたと記憶する。

復員し警察官に

 古里の徳山へ10月初旬に戻るまで、広島でがれきを撤去したり、遺体を焼いたりする作業に従事した。9月には枕崎台風が広島を直撃。土砂が覆った線路を復旧する作業にも当たった。

 その間、髪が抜けたり、歯茎から出血したりして亡くなる兵士が何人か出てきた。「自分もこうなるのではないかと不安になった」

 復員後、県警の警察官になった。主に刑事畑を歩いた。火事現場では「焼け焦げた臭いで、焼け野原を思い出しつらかった」と振り返る。旧江崎署の副署長で定年を迎えた。

 1995年に再就職先を退職した後、山口市原爆被害者の会に入った。被爆者の高齢化で体験をはっきりと記憶し、元気に証言できる人は少なくなった。継承に危機感を覚え、2011年から語り部の勉強会を始めた。

 被爆時に5歳までだった人や被爆2世が参加する。原爆被害の実態と平和への思いを引き継ごうと進んで「お手本」を示す。伝える使命を感じるからだ。

 3月にはロシアのプーチン大統領がウクライナ危機の際、核兵器の使用準備を指示していたと発言。5月には核拡散防止条約(NPT)再検討会議が決裂した。世界は、被爆者の願いである核兵器廃絶から遠ざかる。「それでも地道な努力を続けていくしかない。二度と私たちのような被爆者を生み出さないために、命ある限り伝えたい」と前を見据えた。(柳岡美緒)

(2015年8月6日朝刊掲載)

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