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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <3> 笠岡市原爆被爆者会顧問・桑田義彦さん=笠岡市

「ひろば」から廃絶の声上げて

 核兵器廃絶の訴えを浸透させるには、被爆者の語り部活動やイベントだけでは難しい。いつでも立ち寄れる象徴的な空間が必要だと思う。笠岡市には「かさおか平和のひろば」がある。国道2号沿いで普段から人目に付きやすい。毎年8月6日には市原爆死没者鎮魂式と平和祈念のつどいを開いている。

 平和のひろばは1999年、市原爆被爆者会が市に要望し、市有地の使用許可を得た。8月に平和祈念モニュメントを建立。2000年に看板、05年には原爆被爆60周年記念碑を設けた。いずれも会の代表として、市と交渉した。

 被爆者会の会員は高齢化し、活動が停滞している。被爆70年のことし、被爆者代表として「核兵器を無くして平和な世界へ」と刻んだ碑を建てた。みんな年を重ね、残された時間は少ない。70年の証しを形にしたかった。

 笠岡商業学校を卒業し、1945年4月に広島の陸軍船舶練習部教導連隊に入隊。爆心地から1・5キロの知人宅で被爆した。戦後は笠岡市で地域紙「かさおか山陽」を発行、県原爆被爆者会副会長を務めた。

 被爆して頭髪が抜けた。背中の傷に、うじがわいた。元気だった人が後日亡くなり、毎日が怖かった。80年に肝不全で入院し、5年前には盲腸、膵臓(すいぞう)炎などで1カ月の間に3度の手術を受けた。これまで幾多の苦難を乗り越えられ、生きることは大切だと実感している。核兵器廃絶への道も同じ。諦めてはいけない。

 多くの被爆者が亡くなった。平和のひろばにある碑の裏には、名前が刻まれている。原爆の悲惨さを知る人たちが、市内で生きていた事実を忘れてもらっては困る。碑が後世に伝える役割を担っている。

 今は時代に即した対応も必要だ。被爆者だけの会ではなく、名前を変えて核兵器廃絶の賛同者と一緒に活動を続けてもいいのではないか。平和のひろばから、戦争のない世界を目指す運動が広がるのを願ってやまない。(谷本和久)

(2015年8月6日朝刊掲載)

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