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連載・特集

広島復興はカープとともに 球団創設時の捕手・長谷部稔さん 戦争なき時代、スポーツと生きた幸せ。

 被爆70年の夏を迎えた広島東洋カープとファンを、感慨深く見守る人がいる。カープ創立と同時に入団し、引退後も野球教室などの地域イベントを続けてきた長谷部稔さん(83)=広島市安芸区=だ。広島復興の希望となり、若者を健全に育成した野球が、平和につながってきた実感をかみしめる。6日には日米の学生にマツダスタジアム(南区)で体験を語る。(客員編集委員・冨沢佐一)

 1日、古田公民館(西区)でカープと広島の復興について講演した。被爆後、広島市内へ入ると一面焼け野原だったこと、後援会をつくって支えたファンに歴代の選手が感謝していること…。会場から大きな拍手を受け、「カープに元気づけられて、広島は見事に復興を果たした。そのカープをこれからもみんなでしっかりと支援してください」と呼び掛けた。

 現在の中区千田町にあった県立広島工業学校(現県立広島工高)2年の時、爆心地から9キロの矢野町(現安芸区)の自宅近くで原爆のきのこ雲を目撃。終戦後、つぶれた校舎からみんなで机やいすを取り出し、青空教室で授業を再開した。通学中に広島駅で接した光景が、野球部へ入るきっかけとなった。闇市一帯でたむろしながらたばこを吸う少年らの姿。心の中にも廃虚を見た思いだった。「自分も引き込まれたらいけんと考えたんです」

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 3年生だった1949年末にカープが誕生。テストを受けて入団した球団は資金難。独身だった長谷部さんたちへの給料支払いはしばしば後回しにされた。やがて、球団は解散の危機に。救ったのは後援会だった。矢野町をはじめ各地で次々に結成され、その会費でカープは生き延びた。長谷部さんもエース長谷川良平投手と名コンビの捕手として7年間活躍した。

 引退後、カープ時代の仲間と各地で野球のイベントを開いた。「カープOBとして、何か社会へ貢献したかったんです」。矢野町で開いた初の少年野球教室や地元チームとの親善試合、終了後の懇親会が盛況だったのがきっかけだった。「子どもも親も大喜び。『うちでもやってほしい』との声が相次いで輪が広がっていきました」

 イベントを発端に74年、OB会ができ、3代目会長を務めた。会長を退いた今も、OB会は各地で野球教室を開いている。「地域の絆を強めることは平和な社会にもつながる、と実感しました」

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 地元の学区体育協会会長などを歴任。92年には、矢野町が広島市へ合併した後、盆踊り大会などが廃れたのを惜しみ、サマーフェスティバルの開催に尽力。祭りは毎年にぎやかに開かれ、今年で24回を迎えた。講演依頼も増え、原爆の悲惨さや、カープの苦難の歴史を語ってきた。

 8月6日は自宅で祈りをささげてきたが、今年は初めて日米の学生約10人に被爆体験やカープの歴史を語り、平和の尊さを訴える。「被爆後の焼け跡で『これからどうなるんじゃろう』と思ったが、広島はカープとともに復興した。私も戦争のない時代にスポーツとともに生きて幸せ。今後もカープのため広島のために尽力したいと思います」

(2015年8月6日セレクト掲載)

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