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私も「ヒバクシャ」 平和公園などで10人に思い聞く 広島原爆の日

 原爆は体験していない。だけど、一瞬で命を奪い、生き残った被爆者の心と体を深く傷つけた核兵器を絶対に許せない。そんな訴えを、さまざまな形で発信し続ける人たちがいる。みんなの合言葉は、私も「ヒバクシャ」。平和記念公園周辺などで6日開かれた平和イベントの主催者や参加者たちにその思いを聞いた。

被爆ピアノ 平和託す/核の根っこ絶たねば/悲劇伝え続ける

若者が思い受け止め/米国で語り継ぐ/福島の人に寄り添う

 「再生されたピアノが奏でる音に平和への願いを託した」と話すのは、平和記念公園で被爆ピアノを演奏した広島なぎさ中2年園部真秀君(14)=広島市佐伯区。ショパンの「幻想即興曲」を披露した。

 被爆アオギリそばでの演奏の模様は、インターネットの動画配信で、園部君が卒業したなぎさ公園小(佐伯区)と交流があるニュージーランドの学校にも生中継された。「音楽は世界共通の言語になり得る。世界から核兵器がなくなってほしい」と力を込めた。

 小学2年から、毎年8月6日にこの場所で被爆ピアノを弾く。被爆70年のことしは例年以上に平和を意識したという。「核兵器廃絶はきっと実現できる。そう信じている」

 「被爆者の思いを若者が受け止め、未来につながる場をつくりたい」と話すのは大学生グループ「リンガ・フランカ」の野村優希代表(22)=東広島市。若者たちと被爆者の交流イベント「はちろくトーク」を開いた。

 被爆証言を聞いた後、グループごとに思いを語り合った。「たくさんの人と対話し、自分の考えを深める機会になったのでは」。若者が参加しやすいよう、飲み物を用意するなど気軽な雰囲気づくりを心掛けたという。

 京都市南区出身で広島大総合科学部の4年生。初めて被爆証言を聞いたのは大学入学後だった。「参加者が感想を友達に伝えるなど、思いの共有が広がってほしい」と願う。

 「人の痛みを、自分の痛みとして感じながら被爆体験を聞き、伝えたい」。こう話すのは、瀬野川中2年久保菜々美さん(13)=広島市安芸区。

 青少年が平和を考える集い「ヒロシマの心を世界に2015」で、被爆体験談を基にした紙芝居を上演した。

 平和学習の一環で家族5人を失った被爆者から体験談を聞いたのは6月。大好きなテレビを見たり、家族で食卓を囲んだり―。「そんな自分の日常生活は平和な日本だからこそ続いていると気がついた」

 その後、2年生全員で紙芝居に仕上げた。そして、発表の舞台に立つ生徒8人の枠に手を挙げた。「同世代と平和を語れる機会があれば今後も積極的に関わりたい」

 「核は、どういう目的であろうと否定しないと人類に未来はない」と訴えるのは、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表の森滝春子さん(76)=広島市佐伯区。日米の研究者たちを招いて、核被害を考える集会を中区で開いた。

 核と人類は共存できない―。活動の根底には、被爆者で原水禁の議長だった父市郎さん(1994年に92歳で死去)のこの言葉がある。インドやイラクで調査したのも「全ての被爆者を知らないと世界に訴えが届かない」との思いからだ。

 11月に原爆や核実験、原発事故の国内外の被害者が集うフォーラムを中区で催す。「被爆者の努力で核兵器の恐怖は伝わっている。ただ核そのものの根っこを断ち切らないといけない」

 「青空の朝に多くの人が倒れ、死んでいった悲惨な情景を身近に感じることができた」と話すのは小学校教諭の水橋透さん(54)=富山県滑川市。原爆ドーム前でのダイインに参加した。

 中学時代の修学旅行以来の広島訪問。デモや集会、そして、ダイインに初めて参加した。安保法制を整備する動きには危機感を抱くが「政府に対し、民意が正面からぶつかっている状況には希望がある」。

 平和記念公園にも署名運動をする高校生たち若い世代が多数いた。全国で反戦平和のうねりが起きていると実感したという。「小さな力かもしれないが、私も一人の市民としてできる活動を続けたい」

 「先祖が広島からハワイに移民していなければ原爆に遭い、自分はこの世にいなかったかもしれない」。日系4世でクレイトン大2年ジャロン・ツカモトさん(19)=米ネブラスカ州=はこう話す。

 海外23都市から参加者が集う青少年国際平和未来会議に参加し、原爆詩人栗原貞子の「私は広島を証言する」を英語で朗読。「地獄を見た者が地獄を語って魔王に呼び戻されるとしても私は証言するとの内容に魂を揺さぶられた」

 過去の参加者が母国で平和を考える活動をしていると知り感銘を受けた。「広島出身の祖先を持つ自分には、とりわけ原爆のむごさを伝える使命がある」。被爆者から聞いた証言を米国で語り継ぎたいと願う。

 「65歳の定年を機に、社会貢献できればと挑戦した。まだまだ勉強の日々です」と笑顔で話すのは、原爆資料館の展示品や平和記念公園内の碑や像を解説するヒロシマピースボランティアの村本純二さん(67)=広島市安芸区。

 約3カ月の講習を受け、昨年4月から活動を始めたが「当初は熱線の温度や爆風の威力など知らないことだらけ。何度も何度も講習テキストを読んだ」。小学生からもらった「授業よりよく分かった」の言葉が何よりの励みだ。

 ことしから英語にも対応する。この日は、外国人観光客たちと平和の思いを込めて折り鶴を作った。「これからも被爆の実相を分かりやすく、一人でも多く伝えたい」と意気込む。

 「読み進めると原爆の怖さや悲惨さが伝わり、つらかった」と振り返るのは、湯来中3年神田未来さん(14)=広島市佐伯区。地元の平和行事で昨年に続き、町内の被爆者54人が編んだ体験記を朗読した。

 生徒8人で2編を分担し、ことし4月に亡くなった湯来原爆被爆者の会前会長の桜井賢三さん=当時(84)=の体験談の一節を受け持った。市内で建物疎開作業中に上半身を焼かれ、避難する桜井さんが見た情景を丁寧に読み上げた。

 昨年の行事で「戦争しちゃいけん」と生徒たちに必死に訴えていた桜井さんの姿を思い起こす。「戦争を知るお年寄りが減っている。大人になっても湯来の被爆体験を伝え続けたい」

 「今、放射線被害の不安の中にいる福島の人たちに寄り添うのは、被爆地広島の私たちの役割」と話すのは、広島市の市民団体「まち物語制作委員会」事務局長の福本英伸さん(59)=廿日市市。福島第1原発事故後、被災者に手作りの紙芝居を届け続け、その数は3年余りで124作に上る。

 ほぼ毎月、福島を訪ねてきた。「被災者との信頼関係を育んで、紙芝居の物語は生まれた。それぞれの思いや声を発信してもらうツールになれば」と願う。

 今春、原爆投下から7日間の広島を描いた紙芝居も作った。「語りたくない人はまだいる。それでも何が起き、どんな苦労があったのか。50年先、100年先も共有できる物語を残せるよう取り組んでいきたい」

 「平和への願いがこもった重い響きだった」。こう話すのは、市民有志でつくる「平和の鐘」響け再び実行委員会の船越聖示さん(85)=広島市佐伯区。中区の中央公園にある、被爆4年後の8月6日の式典で一度だけ使われた鐘を66年ぶりに鳴らす催しを開いた。

 鐘は、当時の広島銅合金鋳造会の会員が、焼け跡から集めた金属を溶かして作った。長くその存在が忘れられていたため、「有志を募り、毎年鐘を鳴らし続けていきたい」という。

 自身も70年前、入市被爆し、「節目のこの日には言葉にしたくない記憶が今も残る」と打ち明ける。現在の平和が続くよう、「政府は戦争をしないよう外交努力に力をいれるべきだ」と注文する。

(2015年8月7日朝刊掲載)

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