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惨禍を70年忘れず 金輪島から原子雲目撃・本谷正輝さん 日記に刻む焦土のまち 広島原爆の日

あの雲の下の地獄絵図 焼き付けられた記憶とともに

 原爆は人びとから掛け替えのない家族を、家を、日常を奪った。破壊し尽くされ、「草木も生えない」とまで言われたヒロシマを見詰めて、一日、また一日を生き抜いてきた被爆者や遺族たちは、70年の原爆の日を特別な気持ちで迎えたに違いない。6日、広島市の中心部や島で、まちの原点を振り返った。

 本谷正輝さん(86)=東広島市志和町=は、広島師範(現広島大)1年生だった「昭和二十年度」の日記を残す。学徒動員先の金輪島から見た原子雲から未曽有の事態の中での行動を詳しく記す。70年ぶりに島へ渡り、日記にも刻んだ「あの日」を証言した。

 原爆が投下された午前8時15分、金輪島の造船所から慰霊のサイレンが鳴り響くと、かみしめるような表情を浮かべた。ドックとなった旧陸軍野戦船舶本廠(しょう)で物資の積み込み作業の最中だった。

 爆心地から約6・5キロ。閃光(せんこう)と爆音にとっさに身を伏せ、空に視線を転じた。「油が水に浮かんだとき(のよう)に青、赤の色が波状に空一面に拡がってゐた。やがて山の上からもくもくと赤いけむりが出はじめた」と日記にはある。

 爆心地の方向を見やりながら、「あの雲の下の地獄絵図を忘れたことはありません」。焼き付けられた記憶をさらにたどった。

 級友約30人と昼ごろ、機帆船で上陸し、皆実町(現南区)の師範予科寄宿舎の救援に向かった。「市内いたるところから天をこがすやうな火災を生じて」と書き留めた。建物の下敷きになるなどした予科1、2年6人は亡くなる。

 翌日以降も東雲町(現南区)の校舎を拠点に不明の教員らを捜し、救護所となった各国民学校を訪ね歩いた。講堂にひしめきうめくけが人、全身を焼かれ行き倒れた女性…。「まともには見られない。やがてこれ等も死ぬ」。日記は夜や朝の空き時間に書き、9月30日まで続けた。

 本谷さんは48年に卒業し、現東広島市内の小学校で89年まで教えた。校長の頃も原爆の記憶を伝える機会を持たなかった。退職して悔いが募り、児童への証言活動を続けている。

 「原爆の街を駆けしは十六歳 おぼろとなりてこの身老いたり」―。記憶が遠のく実感を詠んだこともあるが「体が続く限りは」と言い聞かせる。16歳の夏の日記を携え、きょう8月7日は東志和小で子どもらに語り掛ける。(「伝えるヒロシマ」取材班)

(2015年8月7日朝刊掲載)

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