戦争の犠牲者悼む原点 阿川弘之さんと広島
15年8月7日
阿川弘之さんは、広島市白島九軒町(現中区)で1920年12月24日に生まれ、旧制高校を卒業するまで広島で暮らした。
<br><br>
「耕二の家の裏の白い川原は、夏、水遊びの子供達で賑(にぎ)わった。花崗岩(かこうがん)質の、キラキラ光る砂の中にはたくさん蜆(しじみ)貝がいた」
<br><br>
作家としての地歩を固めた初の長編「春の城」(52年刊)は、生家から望む京橋川の情景から始まる。主人公「耕二」には、自身の若き日が投影されている。
<br><br>
日米開戦の翌42年、東京帝大を繰り上げ卒業となり海軍に入隊。暗号解読の訓練を受けて中国戦線へ送られた。45年8月6日の原爆投下を漢口で知り、敗戦と収容を経て翌46年3月末に復員。両親は白島九軒町で被爆したが無事だった。
<br><br>
「春の城」は、戦争がのしかかった激動の時代をひたむきに生きた人たちを端正な筆致で描く。耕二は戦地から帰還したが、恋人や恩師らは亡くなっていた。戦争のむなしさ、原爆の悲惨さを声高にではなく静かに語り掛けてくる。
<br><br>
さらに「魔の遺産」(54年刊)を著した。襲い掛かる原爆症の実態や、患者を調べるだけのABCC(原爆傷害調査委員会)をルポルタージュ形式で描いた。被爆者たちの赤裸々な体験談も展開する。旧制広島高の先輩らの協力も得て綿密な取材を積み重ねた。
<br><br>
しかし、これ以降、原爆を真っ正面から扱った作品は一つも書かなかった。なぜなのか。
<br><br>
「〝原爆文学〟の行手を探る」と題した中国新聞の座談会(53年4月17日付夕刊から3回掲載)で、地元の作家らがテーマ性を重んじるのに対して、「文学はそんなにすぐ社会的効果だけをねらって成功するものとは思いませんねえ」と一歩引く発言をしていた。
<br><br>
「魔の遺産」は、親友の作家安岡章太郎さんが「彼の培養器はまるで役に立たなかった」というように不評も買った。それ以上に阿川さん自身が、原爆をめぐる作品が特定の政治性から捉えられることを嫌った。
<br><br>
晩年にこう語っている。「彼らの同類と見られるのが嫌だから、原爆のことに触れるのはやめてしまった」(「我が青春の記憶」)と。原水禁運動を厳しい言葉で切り捨て、市民レベルの反核運動も冷ややかに見ていた。
<br><br>
「山本五十六」などの伝記文学や、滋味あふれる随筆で名声が高まるにつれて被爆地と疎遠になった。それだけに2003年、広島市名誉市民になった際は「市民にしてもらえてありがたい」と率直に喜んだ。
<br><br>
阿川作品は、原爆のみならず戦争そのものを見つめ、逝った人たちを悼み忘れない人たちを重んじた。米寿の年、記者が取材の手紙をしたためると、「もはや老廃の身で、何事にも前向きな気持ちになれず」と記したはがきが届いた。
<br><br>
「鮨(すし)そのほか」が出た一昨年、手紙を送ると即座に電話がかかってきた。「夜にビール1本を飲むのが楽しみでね」。取材はやはり断られたが、旧制広島高が同窓会を開くことを伝えると、言葉を弾ませて話した。
<br><br>
「諸君、小さな完成品になってはいけませんよ、と教えられました」。阿川さんは「無用の用の文学」と表しながら生涯をそれに懸け挑んだ。(編集委員・西本雅実)
<br><br>
◇
<br><br>
阿川弘之さんは3日死去、94歳。
<br><br>
<strong>阿川弘之さんの足跡</strong><br><br>
1920(大正9)年 12月24日 広島市白島九軒町(現広島市中区白島<br> 九軒町)に生まれる <br>
33(昭和8)年 広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)入学 <br>
37年 広島高(現広島大)入学。文芸部で部誌に小説を書<br> く。高校生活の終盤、福岡市の同人雑誌「こをろ」の<br> 同人になる <br>
40年 東京帝大(現東京大)文学部入学 <br>
42年 卒業が半年繰り上げとなり9月に卒業。海軍予備学生<br> に志願、採用され佐世保海兵団入隊 <br>
44年 中尉となり、中国・漢口で通信諜報(ちょうほう)業<br> 務に就く <br>
45年 中国・漢口で終戦を迎える <br>
46年 3月に復員。広島で父母と再会。上京して執筆に専<br> 念。「年年歳歳」を「世界」に、「霊三題」を「新<br> 潮」に発表 <br>
47年 「八月六日」を「新潮」に発表 <br>
49年 増田みよと結婚 <br>
52年 「春の城」(新潮社) <br>
53年 「春の城」で第4回読売文学賞 <br>
54年 「魔の遺産」(新潮社) <br>
55年 「志賀直哉全集」(岩波書店)の編さん委員に。11<br> 月、ロックフェラー財団のフェローとして妻とともに<br> 渡米 <br>
56年 4月 「雲の墓標」(新潮社)。12月に帰国 <br>
58年 7月 「お早く御乗車ねがいます」(中央公論社) <br>
59年11月 「カリフォルニヤ」(新潮社) <br>
60年 「阿川弘之集」(新鋭文学叢書・筑摩書房) <br>
65年11月 「山本五十六」(新潮社) <br>
66年 「山本五十六」で第13回新潮社文学賞 <br>
69年 旧版に約300枚加筆、推敲(すいこう)した「新版<br> 山本五十六」(新潮社)を刊行 <br>
74年 3月 「暗い波濤」(新潮社) <br>
75年12月 「軍艦長門の生涯」(新潮社) <br>
77年 6月 「南蛮阿房列車」(新潮社)。9月「阿川弘之自選作<br> 品」(全10巻、新潮社)を刊行開始 <br>
78年12月 「米内光政」(新潮社) <br>
79年 日本芸術院会員 <br>
86年 9月 「井上成美」(新潮社) <br>
87年 「井上成美」で日本文学大賞 <br>
93(平成5)年 文化功労者 <br>
94年 「志賀直哉」(岩波書店)で野間文芸賞、毎日出版文<br> 化賞 <br>
97年 長女・佐和子との共著「蛙の子は蛙の子」(筑摩書<br> 房)。5月、文芸春秋の巻頭随想「葭(よし)の髄か<br> ら」連載開始(2010年まで) <br>
99年11月 文化勲章。12月、広島県名誉県民 <br>
2002年 「食味風々録」で第53回読売文学賞 <br>
03年 4月 広島市名誉市民 <br>
04年 5月 「亡き母や」(講談社) <br>
05年 4月 大和ミュージアム(呉市)の名誉館長就任。8月「阿<br> 川弘之全集」(新潮社、全20巻)刊行開始 <br>
07年11月 「大人の見識」(新潮社)。12月、第55回菊池寛<br> 賞 <br>
13年 4月 「鮨そのほか」(新潮社)
<br><br>
(2015年8月7日朝刊掲載)