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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <4> 井浅原爆被爆者会相談役・妹尾周平さん=岡山県矢掛町

犠牲者の供養 反核行動続ける

 学徒動員された広島市東蟹屋町(現東区)の広島鉄道局第2機関区で夜勤を終え、朝食を食べようとした時だった。「ピカドン」の恐ろしい光と爆風に遭い、数メートル吹き飛ばされた。

 矢掛町出身。15歳で三原市にあった糸崎鉄道学校に入り、1年時から広島で勤務した。被爆したのは、機関車の見習誘導係を担当していた16歳の夏だった。

 幸いにも大きなけがはなく、いつも一緒に仕事をしていた相棒を探すと、全身にやけどを負っていた。顔は焼けただれ、声で本人と分かった。背中が燃えていたので、上着を引き裂いて脱がすと、皮膚も一緒に剝がれてしまった。助役にもらった食用油を塗ろうとしたが「痛い痛い。殺してくれ」と叫んだため、塗れなかった。3日目に息を引き取った。

 終戦後に帰郷。就職や結婚で差別を受けた。結納後の破談を2度経験した後、24歳で信恵さん(83)と結婚。子どもが小学生になった頃、学校などで語り部活動を始めた。地元の井笠原爆被爆者会や井浅原爆被爆者会の設立にも携わり、両団体の会長も務めた。

 亡くなった相棒の分まで、生き残った自分が平和を訴えようと取り組んできた。被爆70年のことしは、7月に矢掛町であった平和行進に参加。今月9日には、井浅原爆被爆者会の仲間と広島市中区の平和記念公園を訪れる。自宅の井戸水をペットボトルに入れて持って行くつもりだ。

 焦土となった街で、被爆者が「水を」と求めてきた声が今でも耳から離れない。防火用水槽の周りで多くの人が重なり合って息絶えた姿も脳裏に焼き付いている。持参する水は犠牲者への供養であり、当時は何もできなかったことへの償いでもある。

 節目の年に、核兵器廃絶への思いを強くする。一発の原爆が罪のない多くの市民を殺し、生き残った人も差別や後遺症で苦しめた。被爆者の一人として、「核兵器なき世界」へ行動を続ける考えだ。(小川満久)

(2015年8月8日朝刊掲載)

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