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連載・特集

[つなぐ~戦後70年 山口の被爆者] 入市被爆した・折出真喜男さん=周南市

電車に乗り遅れ命拾い 次代に伝える 思い強く

 「あの10分が、運命を分けた」という。1945年8月6日午前8時15分を、爆心地から約10キロの坂駅(広島県坂町)のホームで迎えた。

 当時、修道中(現修道中高)の2年生。広島市役所周辺で建物疎開作業に従事していた。1学年上には尾道市出身の日本画家平山郁夫さん(1930~2009年)がいた。実家は坂町で劇場を経営。あの日、母がたまたま寝坊をして家を出るのが10分遅れ、いつもの電車に乗り遅れた。

救護所に同級生

 駅に着くとホームに空襲警報が響き渡り、その後の電車も遅れた。午前8時が市役所の集合時間。「電車が早く来ればいいのに」と焦りを覚えた。南の空にきらきらと機体を光らせて飛ぶB29を見た。しばらくして広島の方向の空に閃光(せんこう)が広がり、爆風で待合室のガラスが割れた。

 「空爆だ」「火薬庫が爆発したらしい」。そんな声を聞きながら家に引き返した。自分が広島にいると思い込んでいた両親は、手放しで喜んだ。

 翌日、救護所となった坂町の横浜小に向かった。教室に横たわる何人もの負傷者の中に同級生がいた。大やけどを負って全身に白い薬を塗られ、息はか細かった。

声を掛けぬまま

 「遅刻でたまたま原爆から逃れたという後ろめたさがあった」。枕元に立っても何も言えなかった。翌日、同級生はいなかった。亡くなったという。「声を掛けてやれなかったことが胸にずっと引っ掛かっていた」

 親戚の女の子が行方不明と聞き8日、父と一緒に自転車で広島市に向かい、入市被爆した。焼け野原で見たのは、建物や路面電車の残骸、黒く焦げた無数の遺体。子どもを抱いたまま、防火用水に頭を突っ込んで死んだ女性の遺体もあった。

 女の子は見つからなかった。学校では、倒壊した校舎の下敷きになって死んだ友人もいた。195人いた同級生は59人に。壁のない校舎で授業を受けた。

 実家の劇場経営を手伝った後、福山市と周南市の自動車販売会社や、周南市のハウスメーカーに勤務。83歳の現在も住宅設備会社の経営に携わる。

 毎年8月6日、修道中の同級生が広島市に集う。昨年は13人が顔を合わせた。語り部の活動をしている同級生が、別の同級生の孫に証言をする機会があった、とうれしそうに話していた。「それを聞いて救われた気がした」と振り返る。

 同窓会をきっかけにこの1年、孫にも話さなかった被爆体験をさまざまな会合で話してきた。ことしも6日、同級生と顔を合わせることができ、決意を新たにした。「生かされた自分の命。残りの人生でやるべきことがあるのではないか」。次の世代へ伝えたいことを日々、メモに書き留める。(滝尾明日香)

 シリーズ「山口の被爆者」は終わります。

(2015年8月8日朝刊掲載)

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