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連載・特集

びんごの70年 福山空襲 <5> 8・6の後で 続く攻撃 市街地焦土化

惨禍二つ 脳裏に

 福山の市街地が焦土と化したのは、広島市への原爆投下の2日後だった。福山市丸之内の藤井文夫さん(87)の脳裏には、広島と福山の二つの惨禍が刻まれている。

 1945年8月6日朝、広島師範学校(現広島大)の学生だった藤井さんは、学徒動員で爆心地から約6キロの金輪島(広島市南区)にいた。爆風で飛んだガラスで目の上に傷を負いながら、救出活動のため、市街地に入った。顔の皮膚がずるりとむけている人や、腕の皮膚が垂れ下がった人を見た。「地獄絵のようだった」

 翌7日、負傷した同郷の後輩を送り届けるため、満員の電車で福山に戻った。8日夜、鞆町の実家に近い港で家の船に乗って寝ていたら、米軍の爆撃機が低空飛行で来た。しばらくして市街地の空が明るくなった。

 「ピカに遭い、福山の空襲も目の当たりにした。なんという運命かと思った」。後日、市街地に行くと、福山城や福山駅は破壊され、高台から見渡すと、所々に建物が残っているだけだった。

 米軍は原爆投下後も日本国土への攻撃を緩めなかった。米紙ニューヨーク・タイムズは、現地時間の8月9日付の1面に、長崎への原爆投下を掲載した。そして同じ日の紙面で、福山空襲についてこう報じている。

「焼き尽くした」

 「広島に落とされた恐ろしい新兵器について、敵側がまだ十分実態がつかめずちゅうちょしている間に(中略)、破壊爆弾および焼夷(しょうい)弾を積載した計385機のB29を敵の4目標に向けた。一つの部隊は真夜中前の暗闇の中で攻撃し、人口5万7千人の福山の都市を焼き尽くした」

 福山空襲の体験談を集めた「福山空襲の記録」にも、原爆に関する記述がある。「広島が新型爆弾でやられ、一発で全滅した」―。情報が伝わり、不安が広がる中で、自分たちの街も焼かれた。

 福山空襲を記録する会の岡田智晶代表(84)=福山市水呑町=は力を込める。「日本が戦争へと突き進んだ結果、多くの市民が犠牲になった。日本が取った道は誤っていた。戦争を繰り返してはいけない」(小林可奈)=おわり

(2015年8月8日朝刊掲載)

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