戦後70年 志の軌跡 寄稿 堀場清子 原爆の惨禍をくぐり 忘れがたい女人の姿 <上> 苦難見せぬ言葉に浄化
15年8月10日
大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり
広く知られる正田篠枝のこの歌は、歌集「さんげ」(1947年12月5日)にみられる。初出は前年8月、彼女の「東京の歌の師」である杉浦翠子が疎開先で、夫・杉浦非水の協力によって出していた謄写版刷りで少部数の美しい歌誌「不死鳥(ふしどり)」第7号だった。表現が少し違う。「大き骨は先生なりあまたの小さき骨側にそろひてあつまりてある」
猛火 子供ら抱え
いずれにせよ、爆心に近い国民学校で、猛火に囲まれた子供たちが、一斉に先生にすがりつき、先生は子供たちを腕に抱えたまま、焼かれて骨となった姿である。現広島市中区の、竹屋国民学校長に任じられたばかりだった光成選逸(みつなり・せんいつ)氏と、その児童たち…。
選逸氏の妻ヤエさんは、3人の子供を連れていまの府中市に疎開し、一家はときおり広島から帰宅する父を待ちかねていた。8月6日の朝7時、ヤエさんは夫と電話で話した。「母子で皆無事におれば安心。自分1人なら、どんなにしてでも逃げられる。いざというときには、七つの川があるから泳ぐよ」と、選逸氏は冗談を言った。
昼ごろ「広島は大変な新爆弾が落ちたそうな」と、うわさが届く。夕方、県庁勤めで被爆した人が、近所の家にきたと聞いた。重体で話もできず「見渡す限りで何も分からぬ」「早く行って助けなければばたばた死んでいる」との伝言に声もなく立ちすくんだ。
翌日からヤエさんは広島を目指す。途中で汽車が止まり、2度は行き着けなかった。3度目、ぐにゃぐにゃとあめ色の鉄骨が光る竹屋国民学校の講堂跡を目標に歩く。橋が落ち、道もなく、容易に行き着けない。運良く同校の先生に会い、「こちらが光成先生」と言われても、信じ難く、声も出ず、ただ、骨のそばにひざまずいていた。
選逸氏は毎朝ゲートルを巻くのを嫌い、将校用の皮ゲートルを使った。ひもを掛ける真ちゅうのびょうがたくさん並んでいた。それが骨の脇でキラッと光り、涙があふれ出た。そばに小さい頭の骨がたくさんあって、それに触れないよう細心に気を配りながら、夫の骨を拾った。当時、受け取った悔み状の一つには「遺骨あっての御葬式でなによりです」と書かれていた。
そばにいた女性
死亡届や金銭出し入れの証明書など、広島に用事が多かった。出っ放しの水道管から水を飲もうと近づくと、思いがけない人に出会った。歌誌「晩鐘」の主宰者であり、選逸氏とは教師仲間で家族ぐるみの親交があった山隅衛氏だった。ヤエさん自身、「晩鐘」の愛読者で戦後は会員となって歌を詠んだ。その戦後の詠―。
父兄会につどふは殆(ほとん)ど父ならしちちなき子らはさびしくあらむ
両親の揃へる娘をさがすといふ聞くだにいとし父亡き我子よ
思わぬ再会の山隅氏にヤエさんは夫の最期を詳しく語った。そばに弱々しい女性が立っていた。それが山隅氏を「広島の歌の師」とする正田篠枝だった。
被爆者への援護が乏しかった戦後、生活難の中で3人の子を抱え、ヤエさんは小学校に勤め、長男が大学を卒業するまで働きぬいた。夫の最後の様子を、ヤエさんは家族にも語らないできた。被爆50年の年、90歳となったヤエさんの心に変化が生じていた。
ちょうどそのとき、「いしゅたる」という小さな雑誌を出していた私が、「原爆50年」特集に、ヤエさんの回想記をいただきたいと考えたのは、どういうご縁だったろう。山隅氏の長女中村千代さんが、酷暑のなか、遠路を行き、原稿をもらい受けてくださった。
ヤエさんの文章は、篠枝の歌にもふれている。原爆の惨禍をくぐり、苦難多く、悲しみ深く生きた女人の言葉の爽やかさに、私はいつも、聖水に清められる思いとなる。
「あの時の私の話が、そのまま詠まれていると直感しました。山隅先生と、偶然出会ったおかげで、夫の最後の様子が短歌となって残されたとは、なんという神秘でしょう」
<メモ>文中の正田篠枝の歌にある「大き骨」は、後に「太き骨」とした表現も見られる。
ほりば・きよこ
1930年広島市生まれ。早稲田大文学部卒業後、共同通信社勤務を経て、創作に専念。82年、詩と女性学をつなぐ詩誌「いしゅたる」を創刊し、2002年まで出版。1993年、詩集「首里」で現代詩人賞。占領期の原爆文献の調査や女性史研究でも著書多数。日本現代詩人会会員。日本文芸家協会会員。
(2015年8月8日朝刊掲載)
広く知られる正田篠枝のこの歌は、歌集「さんげ」(1947年12月5日)にみられる。初出は前年8月、彼女の「東京の歌の師」である杉浦翠子が疎開先で、夫・杉浦非水の協力によって出していた謄写版刷りで少部数の美しい歌誌「不死鳥(ふしどり)」第7号だった。表現が少し違う。「大き骨は先生なりあまたの小さき骨側にそろひてあつまりてある」
猛火 子供ら抱え
いずれにせよ、爆心に近い国民学校で、猛火に囲まれた子供たちが、一斉に先生にすがりつき、先生は子供たちを腕に抱えたまま、焼かれて骨となった姿である。現広島市中区の、竹屋国民学校長に任じられたばかりだった光成選逸(みつなり・せんいつ)氏と、その児童たち…。
選逸氏の妻ヤエさんは、3人の子供を連れていまの府中市に疎開し、一家はときおり広島から帰宅する父を待ちかねていた。8月6日の朝7時、ヤエさんは夫と電話で話した。「母子で皆無事におれば安心。自分1人なら、どんなにしてでも逃げられる。いざというときには、七つの川があるから泳ぐよ」と、選逸氏は冗談を言った。
昼ごろ「広島は大変な新爆弾が落ちたそうな」と、うわさが届く。夕方、県庁勤めで被爆した人が、近所の家にきたと聞いた。重体で話もできず「見渡す限りで何も分からぬ」「早く行って助けなければばたばた死んでいる」との伝言に声もなく立ちすくんだ。
翌日からヤエさんは広島を目指す。途中で汽車が止まり、2度は行き着けなかった。3度目、ぐにゃぐにゃとあめ色の鉄骨が光る竹屋国民学校の講堂跡を目標に歩く。橋が落ち、道もなく、容易に行き着けない。運良く同校の先生に会い、「こちらが光成先生」と言われても、信じ難く、声も出ず、ただ、骨のそばにひざまずいていた。
選逸氏は毎朝ゲートルを巻くのを嫌い、将校用の皮ゲートルを使った。ひもを掛ける真ちゅうのびょうがたくさん並んでいた。それが骨の脇でキラッと光り、涙があふれ出た。そばに小さい頭の骨がたくさんあって、それに触れないよう細心に気を配りながら、夫の骨を拾った。当時、受け取った悔み状の一つには「遺骨あっての御葬式でなによりです」と書かれていた。
そばにいた女性
死亡届や金銭出し入れの証明書など、広島に用事が多かった。出っ放しの水道管から水を飲もうと近づくと、思いがけない人に出会った。歌誌「晩鐘」の主宰者であり、選逸氏とは教師仲間で家族ぐるみの親交があった山隅衛氏だった。ヤエさん自身、「晩鐘」の愛読者で戦後は会員となって歌を詠んだ。その戦後の詠―。
父兄会につどふは殆(ほとん)ど父ならしちちなき子らはさびしくあらむ
両親の揃へる娘をさがすといふ聞くだにいとし父亡き我子よ
思わぬ再会の山隅氏にヤエさんは夫の最期を詳しく語った。そばに弱々しい女性が立っていた。それが山隅氏を「広島の歌の師」とする正田篠枝だった。
被爆者への援護が乏しかった戦後、生活難の中で3人の子を抱え、ヤエさんは小学校に勤め、長男が大学を卒業するまで働きぬいた。夫の最後の様子を、ヤエさんは家族にも語らないできた。被爆50年の年、90歳となったヤエさんの心に変化が生じていた。
ちょうどそのとき、「いしゅたる」という小さな雑誌を出していた私が、「原爆50年」特集に、ヤエさんの回想記をいただきたいと考えたのは、どういうご縁だったろう。山隅氏の長女中村千代さんが、酷暑のなか、遠路を行き、原稿をもらい受けてくださった。
ヤエさんの文章は、篠枝の歌にもふれている。原爆の惨禍をくぐり、苦難多く、悲しみ深く生きた女人の言葉の爽やかさに、私はいつも、聖水に清められる思いとなる。
「あの時の私の話が、そのまま詠まれていると直感しました。山隅先生と、偶然出会ったおかげで、夫の最後の様子が短歌となって残されたとは、なんという神秘でしょう」
<メモ>文中の正田篠枝の歌にある「大き骨」は、後に「太き骨」とした表現も見られる。
ほりば・きよこ
1930年広島市生まれ。早稲田大文学部卒業後、共同通信社勤務を経て、創作に専念。82年、詩と女性学をつなぐ詩誌「いしゅたる」を創刊し、2002年まで出版。1993年、詩集「首里」で現代詩人賞。占領期の原爆文献の調査や女性史研究でも著書多数。日本現代詩人会会員。日本文芸家協会会員。
(2015年8月8日朝刊掲載)