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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <5> 岡山市原爆被爆者会会員・結城温水さん=岡山市北区

胎内で「あの日」語り継ぐ決意

 広島に原爆が投下された2カ月後に私は生まれた。原爆の記憶は一切なく、母や当時6歳だった姉から話を聞いた程度。それでも多くの被爆者の体験を聞いて勉強し、今後語り部として活動をしていきたいと思っている。

 1945年当時、家族は広島県府中町鹿籠(こごもり)に住んでいた。母は原爆投下翌日の8月7日、行方不明になっていた隣の家の男の子を捜しに広島市中心部へ入り、おなかの中の私とともに被爆した。同行した当時2歳の兄、姉の双子は血便などの症状が出て9月までに相次いで亡くなった。母は実家のあった岡山市に帰省中の同年6月29日には岡山空襲も経験している。

 母は現在98歳だが、本当に苦労をして生きてきた。弱音を吐かない性格で原爆の話はほとんどしなかった。双子が亡くなった時、父は親戚のいる岡山や香川まで食料の調達に出ており、母は1人でみとった。父が戻ると、母は泣きながら竹ぼうきを持って父を追い掛けたと聞いた。よほどつらかったのだろう。

 終戦翌年、一家は岡山市に転居。周囲に被爆者は少なく、家族が原爆の体験を話すことはなくなった。69年に結婚。2人の子どもも授かった。2013年、岡山市原爆被爆者会に入会。ことし4月からは会計係として運営に携わっている。

 私は生まれた直後、放射線の影響とみられる症状で髪の毛が抜け、5歳までしか生きられないと言われていた。それでも岡山に移り住み、被爆者であることを意識せずに育った。ただ、結婚、妊娠の時は違った。差別を受けないか、元気な子どもが生まれるか、と姉が心配するのを聞き、意識せずにはいられなかった。09年には甲状腺の病気であるバセドー病を発症。因果関係は分からないが、被爆の影響を疑った。長年続けた縫製の仕事を退職後、被爆者健診で被爆体験を聞く機会も増え、次の世代に伝える仕事をしたいと思うようになった。被爆者は高齢化で減っている。一番若い被爆者として頑張りたい。(永山啓一)

(2015年8月8日朝刊掲載)

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