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連載・特集

民の70年 第1部 秘密と戦争 真実が、隠されていた時代。 

 敵の爆撃を利するとして天気予報が伝えられず、空襲を「怖くない」と信じ込まされ、戦局についてうわさ話をしただけで連行される。そんな時代が、70年前にあった。国民に真実を知らせないまま突き進んだ戦争とは何だったのか。体験者の証言や残された資料から考える。(馬場洋太)

消えた天気予報

「軍事機密」伏せられた警報

 1941年12月8日。真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったその日から、気象無線通報は暗号化され、新聞やラジオによる天気予報は中止された。台風や豪雨が予想される際も、特別な場合を除き、警報は国民には伏せられた。

 戦時中、京都府宮津市の観測所にいた元気象研究所研究室長の増田善信さん(91)=東京都狛江市=は「顔見知りの漁師にも予報を教えるなと上司に命じられた。天候が急変しやすい冬場などは、出漁していなければいいがと、特に気掛かりだった」と振り返る。

 42年8月に中国地方を襲った猛烈な「周防灘台風」では例外的に警報が発表された。しかし、山口県内では死者・行方不明者が794人に上った。後に中央気象台(現気象庁)がまとめた「秘密氣象(きしょう)報告」は、伝える用語が制限されたことなどを理由に「山口広島両県下で警報不徹底による被害を生じた」と記録する。

 気象管制は90年代の湾岸戦争でも敷かれ、中東に「空白の天気図」ができた。「気象レーダーのある現代でも、風向きや雲の高さは現地でしか分からず、戦争になれば気象は軍事機密になる。天気予報は平和のシンボルなんです」。増田さんはそう力を込める。

安全神話

非現実的な「空襲怖くない」

 「空襲は怖くない」―。国はこう宣伝し、老人や幼児以外が都市部から逃げることを禁じた。

 旧内務省推薦の本「防空繪(え)とき」(1942年)は、焼夷(しょうい)弾が落ちたときの消火法を解説する。バケツで水をかけ、ぬれむしろや砂で覆えば、火を消せる―と。竹にシュロ縄を付けた「火たたき」の作り方まで丁寧に図説している。

 国民に応急消火を義務付けた防空法が制定され、そんな非現実的な空襲対策が奨励された。防空訓練や冊子、歌謡曲などあらゆる手段を通じて、空襲への備えが言い立てられた。

 米軍機による空襲は44年末から本格化。犠牲者は、原爆死も含め日本全土で50万人以上に及ぶ。戦後、旧軍人・軍属や遺族には恩給や年金が支払われたが、空襲などの一般戦災者は放置されたままだ。

 被災者が国に補償を求めた大阪空襲訴訟で最高裁は昨年、上告を退けたが、国による情報統制が被害を拡大させた点は認定した。

相互監視

「スパイは隣近所にも」強調

 「スパイは隣近所にもいるぞ」と強調され、市民もスパイを捜す「防諜(ぼうちょう)戦士」として、相互監視する役割を担った。監視の奨励は絵はがきのデザインにもなった。

 戦時中、憲兵や特高警察が市民の行動や言動に目を光らせた。飲食店で戦況を語ったり、見かけた軍艦の名前を尋ねたりしただけで怪しまれ、憲兵に密告された。

 スパイ捜しは、戦時体制への国民の不満を封じ込める狙いもあった。1942年の政府広報誌に掲載された「国民防諜六訓」は「不平不満を持つと敵に付け入られる」と説き、「政府の発表だけを信じればよい」とたたき込んだ。

 子どもたちによる「少年愛国防諜団」も発足した。呉市では小学生が、軍艦の名や出航先を尋ねてきた日系米国人を怪しんで尾行し、憲兵に連絡して表彰された。「防諜かるた」も配布され、子どもたちは「田舎でも 油断大敵 スパイがゐるぞ」などの札を取り合って遊んだ。

水島朝穂・早稲田大法学学術院教授に聞く

現代にも当てはまる国の姿勢

 太平洋戦争で政府が国家総動員の体制をつくるには、国民の緊張を高めていく必要があった。そのためには、「敵が身近にいる」と強調することが最も効果的だった。市民の自由を、市民自らが切り縮めていく構図だ。

 空襲に備えて都市から逃げるのを禁じた防空法に加え、隣組の相互監視でがんじがらめにした。「爆弾が降ってきて死んじゃうぞ」というのが本当の恐怖のはずだが、「逃げたら、周囲から非国民とみられてしまう」という恐怖の方が上回った。持ち場を守る責任感や自発性を持たせることで、逃げられない仕組みをつくり上げた。

 なぜなら、政府は国民の戦意喪失によるパニックを恐れたからだ。空襲の消火は無理だと知りつつ、犠牲者を減らすより、国民の国家への忠誠心や戦争協力のムードを維持させることを優先した。戦争を続ける道を選び、助かる命まで奪われてしまった。国民から知識を奪うとどうなるか。それが太平洋戦争での一番の教訓だ。

 政府が都合のよい情報だけを伝える姿勢は、現代にも当てはまる。焼夷弾の威力を小さく伝えようとしたことは、原発の安全神話や福島第1原発事故で放射性物質の拡散予測を公表しなかったことと重なる。

 国家は国民の生活に介入したがる。誰もが反対できない防災やテロ対策を名目に始まることもある。近所の助け合いは大事だが、相互監視に利用されるリスクとも紙一重だ。市民の自由を奪いかねない政治の動きがないか。国民こそ国を監視する必要がある。

みずしま・あさほ
 53年東京都生まれ。広島大助教授を経て、96年から現職。専門は憲法。戦時下の防諜、防空に関する史料も収集する。

<情報統制をめぐる戦前・戦中の主な動き>

1899年 7月 軍機保護法公布。防諜(ぼうちょう)政策が本格化
1937年10月 軍機保護法全面改正。全国に防諜団ができる契機に
同        防空法施行。防空演習への参加を義務付ける
1938年 5月 国家総動員法施行
1941年 5月 国防保安法施行。秘密保護の対象範囲を大幅に拡大
     11月 防空法改正。都市からの退去禁止と消火義務規定を設ける
     12月 真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦。天気予報が中止される

(2015年8月9日朝刊掲載)

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