×

連載・特集

民の70年 第1部 秘密と戦争 <1> スパイ捜し

「一億防諜」互いに監視 市民の通報 軍部が表彰

 日本を焦土にした太平洋戦争の終戦から、8月で70年を迎える。国民から情報と自由を奪い、命を粗末にした社会を知る人々が、戦後復興の立役者になった。「秘密国家」ともいえる戦前社会の問題点を振り返り、中国地方に暮らす市井の人たちが生き抜いた戦後70年を見つめ直す出発点にしたい。

 「技師が左遷された」。呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で軍艦の部品設計に携わった北村恒信さん(90)=呉市=は1942年ごろ、そんな話を耳にした。理由は、戦後になって知った。

機密優先の矛盾

 技師が戦艦大和の特殊部品を造らせるため、下請け業者に資料を見せたのが機密漏らしに当たるとされたという。「秘密を優先するあまり、結果的に良い物を造れなかったかもしれない。矛盾だらけの時代だった」

 防諜(ぼうちょう)(スパイ防止)を目的とした戦前の秘密保護法制は、1899年の軍機保護法にさかのぼる。宇品港や呉港など要塞(ようさい)地帯の撮影禁止や建築制限などを定め、取り締まる法律もできた。それでも、1936年ごろまでは「戦艦の進水式を市民も見学でき、比較的自由だった」と北村さんは記憶をたどる。

 ところが、日中戦争や大和の建造が始まった37年から様子が変わる。同年の軍機保護法改正、41年の国防保安法施行などで秘密の対象が広がり、取り締まりが急速に厳しくなった。

「普通の人」逮捕

 北村さんが参加していた詩文学の同好会も憲兵に踏み込まれた。会場への出入りが目を付けられ、北村さんが欠席したある日、仲間が連行された。「詩は戦争批判ではなかったのに、5人、10人と集まるだけで疑いの目を向けられた」

 「デマ・流言に惑わされるな」「起(た)て一億の防諜軍」。そんな標語の下、仲居、喫茶、理髪など職域別に防諜団ができ、市民がお互いに言動を監視した。43年のある日、中国新聞に「栄誉の防諜戦士 四氏を呉鎮守府が表彰」の見出しが立った。飲食店で戦況を話した徴用船乗組員や水源池付近で地形を撮影しようとした人を見つけ、通報した市民を呉鎮守府が表彰したと報じている。

 憲兵たちが目を光らせたのは要塞地帯だけではない。岩国市沖で43年、戦艦陸奥が爆発したときも、かん口令が敷かれた。山口県周防大島町の高田寿太郎さん(83)は「海岸に重油が漂着して潮干狩りができなくなったが、親でさえ理由を話してくれなかった」と振り返る。

 「戦前、秘密に近づいたとして逮捕や処罰された人の多くは、ごく普通の人だった」。80年代にスパイ防止法案が国会審議されたのを機に、戦前の呉市などでの取り締まり事例を調べた横浜弁護士会の岩村智文弁護士(72)は指摘する。

 同弁護士会が当時まとめた絶版本「資料 国家秘密法」は、昨年の特定秘密保護法施行で再び注目されているという。岩村弁護士は「暗号など必要な国家秘密もある」とした上で、問い掛ける。「国が秘密保護を言うとき、国民に説明しにくい事態や情報を隠したいのが本音だろう。戦前の情報統制は軍事的な有利を導いたか。むしろ、国民を萎縮させるだけではなかったか」(馬場洋太)

(2015年8月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ