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社説・コラム

天風録 「三村剛昂「声涙ともに下る」」

 あの湯川秀樹が弔辞を読んで惜しんだ被爆者の学究がいた。広島大理論物理学研究所の初代所長三村剛昂(よしたか)。戦時下に「間もなく大きな実験があるだろう。一つの都市を焼き尽くす実験だ」と明かした逸話を、教え子の一人に教わった▲日本の軍部は当時、ひそかに原爆開発に着手し、湯川ら物理学者が手を染めた。三村もまた「アメリカニ勝ツ、新シイ発明」のため広島高師付属中に設けた科学学級の教壇に立つが、あの日、爆風で頭に深い傷を負う▲戦後の三村は「声涙ともに下る」と評された演説で名を残した。1952年の日本学術会議総会の席で「米ソの緊張が解けるまで絶対に原子力を研究してはならぬ」と論陣を張ったのだ▲かつての米ソの緊張は去ったが、米ロの核弾頭は今も「常在戦場」である。片や、日本は最悪の原子力災害を起こしたばかりか、「核のごみ」の行き場もない。三村なら「声涙ともに下る」演説を繰り返すに違いない▲夏休み中、広島市こども文化科学館で三村の研究と人となりをたどれる。古びた罹災(りさい)証明書一つにも信念の源があろう。プラネタリウム観賞の帰りに親子でのぞけば、泉下の先生も相好を崩してくれそうな気がする。

(2015年8月9日朝刊掲載)

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