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社説・コラム

社説 被爆70年 長崎からの発信 平和実現へ手を携えて 長崎原爆の日

 すっと胸に入ってくる。言葉に力がある。長崎への原爆投下から70年のきのう、田上富久長崎市長が読み上げる平和宣言を聞いた率直な印象である。

 例えば「私たち一人一人の力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力」とうたう部分だ。市民社会の力が政府、そして世界までも動かせると訴えた。核や平和をめぐる状況が困難さを増す今、深い意味を持つ言葉だろう。

 歴代の長崎市長の平和宣言は広島と比べ、おおむね平易で分かりやすい。市民代表の起草委員会の意見を極力反映させる手法を取るのが、理由の一つだ。政治への直言が広島より目立つのも、市長の言葉というより被爆地全体を代弁する色合いが強いからかもしれない。とりわけ安全保障関連法案にはっきりと言及した今回、例年に増して共感した人が多かろう。

 「反対ありき」の声高な言いぶりではない。原爆のすさまじい破壊力を身をもって体験した被爆者が非戦と平和の理念を心に刻んだことを振り返り、長崎にとっても日本にとっても、戦争はしないという理念が「永久に変えてはならない原点」だと位置付けている。その上で法案への不安と懸念の声に耳を傾けるよう政府や国会に促し、「慎重で真摯(しんし)な審議」を求めた。

 どちらかといえば抑制的で、反対する立場からは物足りないほどだろう。だが市長がこの部分を読むと異例の拍手が起きた。説得力の表れではないか。

 むろん日本政府に対し、核をめぐる具体的な注文もしっかり盛り込んでいる。北東アジア非核地帯の設立を例示して「核の傘」から「非核の傘」への転換の検討を求め、被爆地として物申すスタンスを貫いた。

 安倍晋三首相の言葉の軽さとの差を思わざるを得ない。きのうの式典あいさつで「非核三原則の堅持」をやっと明言した。広島のあいさつで触れなかったのを批判され、一転して入れたようだ。しかし主要な言い回しは広島で述べた中身とそう変わらなかった。

 それでなくても政府側が発してきた言葉は空虚に映る。被爆国をうたい、「核兵器廃絶の先頭に立つ」と事あるごとに口にするが、具体的な行動に結び付いていると思えないからだ。

 だからこそ広島と長崎の平和宣言の役割は重くなる。70年を超えても被爆地が発信するメッセージは求められ、問われ続けよう。それが政治のありようと無関係でいいわけはない。

 安保法案だけではない。長崎の宣言は重要な問題提起が、ほかにも含まれる。東京をはじめとする空襲や沖縄戦、アジアの人々を苦しめた戦争の記憶の継承を呼び掛けたこと。原発事故の影響に苦しむ福島の人たちの応援を続けること。若い世代に対し、原爆や戦争が未来の自分に起こりうる話として「平和のために、私にできること」を考えようと促した意味も重い。

 いずれも二つの被爆地が共通して向き合うべきことだ。

 「広島とともに」という言葉が宣言の最後の一文にある。核兵器のない世界と平和の実現に向けた長崎市民の決意の中で触れた。広島市出身で、長崎大で学ぶ起草委員会の最年少委員の意見をくんだという。「70年以後」に向け、これまで以上に手を携えるきっかけにしたい。

(2015年8月10日朝刊掲載)

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