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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <6> 元笠岡市原爆被爆者会会長・三宅浅野さん=笠岡市

愛する人を守る 女性は行動を

 今は皆さんの前で、被爆体験の話をできるようになった。戦後しばらくは、語り部なんてできなかった。被爆後、20歳を過ぎて幾つかの縁談があったけれども、話が壊れてとても悲しい思いをした。当時は偏見があったようで、結婚や就職を気にして被爆の事実を隠していた人はほかにもいた、と思う。結婚はできたが、原爆を恨んだ。

 母の実家が広島にあり、1945年には広島駅の庶務係に勤務していた。原爆投下時は笠岡に帰省しており、午後から汽車で広島に入って被爆した。数カ月後には仕事を辞め、笠岡に戻った。専業主婦となり、2男2女を育てた。

 原爆が落ちて、まだ燃えているまちを歩いていると、乳飲み子や幼児が、焼死体となった母にしがみついて泣いていた。肉親の名前を叫んで歩く負傷者もいた。何もしてあげられず、悔しかった。広島駅の近くにあった下宿は焼け、世話をしてくれた老夫婦の生死は分からなかった。数日間は、客車の中で寝泊まりした。

 原爆投下の事実が風化する危機感を抱き、95年ごろから語り部活動を始める。県原爆被爆者会井笠支部の笠岡地区長を務め、その後独立した笠岡市原爆被爆者会会長に就任。会長時の99年、かさおか平和のひろばを整備し、平和祈念モニュメントを建立した。

 会長をしていた頃は被爆者健康手帳を持っていない人も多く、知らない人には勧め、手続きを手伝った。被爆者から寄付金を頂いてモニュメントができた時はうれしかった。

 長女は幼い頃から甲状腺が悪く、いまだに薬を飲んでいる。原爆は、時間がたっても人を苦しめる。被爆2世への支援も考えてもらいたい。

 女性はもっと声を上げるべきだ、と思う。妻として、母として、愛する人の命を奪う戦争はだめだ、一瞬にして人を不幸にする核兵器は絶対になくさなければならない、と。悲劇を繰り返してはいけない。(谷本和久)

(2015年8月10日朝刊掲載)

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